過ちの契る向こうに咲く花は
「伊堂寺さんから聞いてた?」
 野崎すみれさんの笑顔はまだ崩れない。
「い、いえ、初耳ですけど……」
 答えてもしどろもどろだ。そんなの、営業部で成績の良い彼女になんて。
「うそつき」
 すぐにばれるに決まっている。

 そこで初めて、彼女の顔からきれいな笑顔が消えた。というよりも表情が消えた。
 私より背は小さいのに、雰囲気のせいかとても大きな存在に思えてしまう。

「地味だし、冴えないし、愛想もよくない。伊堂寺さんの趣味ってわからないわ」
 どこかで覚悟していた、厳密に言えば自覚していたことばだった。
 ただそれを目の前で彼女にはっきり言われると、さすがに棘が痛い。かと言って反論できる立場でもない。
 彼女はどこまで知っているのだろう。婚約破棄されただけでなく、別の婚約者ができてしまったこともどこからか聞いているのか。
 わからない。わからないから、なにも言えない。

「せめて顔だけでも良かったらいいのに」
 びくっと肩が震えてしまった。

 野崎すみれさんは、そんな私を見ても表情を作らず「じゃあ」と言って去っていってしまった。何がしたかったのかとか、何の意図があったのかとかは考えない。だって、それなりのことをされたのだろうから。伊堂寺さんの女性に対する態度を見ていたらよけいにそう思う。

 だけど、一拍置いて私の血は逆流したんじゃないかと思うぐらいの熱を身体の隅々にまで運んでいった。
 慌てて深く息を吸うも、うまくいかずに浅くなってしまう。

「ん、そんなとこで何してんだお前」
 そこへ入れ替わるように水原さんが出勤してくる。
「ああ、ファイルの整理か……って野崎?」
 おはようございます。そう言おうとしても唇が動くだけだった。なんとか苦労して挨拶をした途端、涙がこぼれそうになっている自分がいることに気づく。
「す、すいません。ちょっとお手洗いに行って来ます」
 それしかもう言えなかった。始業までに猶予はあったからおかしくはないだろうけれど、明らかに挙動は不振だっただろう。
 水原さんが何か声をかけてくれたものの、聞きとることはできなかった。

 廊下をなるべく急いで通り抜け、女子トイレへと駆け込む。誰の姿も見当たらなくってほっとした。
 流れるかと思っていた涙も、そこまではいかないようだった。ただ鏡を見ると、眼鏡の奥にある瞳がうっすら赤くなっている。

 それでいいはずだったのに。
 鏡の中の自分に問う。
「顔だけのくせに」と言われることが嫌で生き方を選んだんだから、それでいいはずでしょう。
 もちろん答えなんて帰ってこない。

 思ったほど、自分の気持ちって整理がつけられていないものだ。そう自覚して、私は静かに息を吐いた。
 
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