彼が眼鏡を外したら
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 けだるい昼下がりのオフィスで思うことといえば、明日にでも突然上司が渋い美中年にならないだろうかとか、季節外れだけど年下のかわいい同僚が増えないだろうかとか、本当にくだらないことばかり。
 ルーティンワークを繰り返す毎日は、あまりにも刺激が不足している。
 目の前にある図面の番号と同じ数字をモニターの中に探しながら、上司と年下同僚のどちらがより刺激的か考えてみるが、両方が揃えば最高に刺激的だと気がつき、私はこの思いつきに内心でにんまりとした。
 承認作業を黙々と進めていると、背後から「奈保子さん」と私を呼ぶ声がした。
 振り返ると眼鏡の孝平(こうへい)くんが突っ立っていた。
「これもお願いします。今日中に、と言われたんで」
 私は彼を見上げ、あからさまに嫌そうな顔をした。
「承認は孝平くんでもできるでしょ? 急いでいるなら自分でやればいいじゃない」
「すみません。僕、まだ権限ないんで」
 肩をすぼめて遠慮がちに図面をこちらへ差し出す孝平くんの姿は、私の苛立ちをますますあおった。
 ひったくるように図面を受け取ると彼に背を向ける。
「わかった。すぐにやっておく」
 冷たい調子で言い放つと、背後で孝平くんがすまなそうに立ち去る気配がした。
 手にした図面を見る。
 私は奈保子という自分の名前があまり好きではない。この部署にいる人間は誰もがそれを知っている。だから私を呼ぶときはみんな「なおちゃん」と言う。
 しかし唯一年下の孝平くんだけは、いつまでも「奈保子さん」を貫いていて、それが気に入らなかった。ついでにいえば、彼の眼鏡が許せないほどダサい。眼鏡を変えるだけで、少しはまともに見えそうなのに、本人にはそんな気がまったくないのだ。
 はぁ。大きなため息をついて、モニターを見据える。
 日常とはこんなもの。
 だけど私は性懲りもなく明日もイレギュラーなハプニングを期待してしまうだろう。そんなものは起こりやしないとわかっていても、期待するだけなら誰にも迷惑がかからないのだから。


 私の勤務するこの会社では、秋に恒例の社員旅行があり、病気でもない限り全員参加が義務づけられている。
 旅行といっても場所はバスで3時間弱の温泉で、取り立てて珍しいものがある場所でもなく、ただ宴会と温泉のために行くようなものだ。はっきりいってつまらない。仮病を使ってキャンセルしたいくらいだ。
 でも今年の私は少し違って、ひそかにこの社員旅行を楽しみにしていた。
 というのも、宿泊がこのあたりでももっとも人気のある有名ホテルへ変更されたのだ。このホテルは洗練されたおもてなしで一躍話題になり、休日は予約が取れないらしい。
 そんなところに堂々と泊まれるのだ。楽しみでないはずがない。
 一緒に行く相手が彼氏だったらもっといいのだけど、残念ながら私はもうすぐ恋人がいない歴2年になろうとしていた。


「で、なおちゃん、彼氏できた?」
 酔っぱらった同僚が私の前にドンと腰をおろし、ぶしつけにそう言った。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
 私はあくまで笑みを絶やさないようにしながら答える。実際、どうでもいい話だ。
「よくないでしょう。やっぱり女の子は男にかわいがってもらわないと、な」
「かわいがってもらわないと、どうなるのよ? それに私、もう女の子という歳でもないから」
「俺よりひとつ下だろ? まだ26だろ? つーか女の子はいつまでも女の子でいいんだよ」
「で、男にかわいがってもらえないと、どうなるわけ?」
「ひねくれて、かわいくなくなるんだよ」
 頬を上気させ、普段より数倍饒舌な同僚をじっと見つめる。
「なにそれ、私にケンカ売ってるの?」
「違う、違う!」
 急に彼は私に顔を近づけた。鼻先にきついアルコール臭。私は身を引く。
「なおちゃん、俺と付き合わない?」
「……は?」
「かわいがってあげるよ」
「遠慮しておく。私にも一応選ぶ権利があると思うんで」
 きっぱり告げると、同僚は不満そうな表情でわざとらしいため息をついた。
「そうだよな。でも気が変わったら言って。俺はいつでも待っているから」
 私は苦笑いを浮かべた。酔っ払いの戯言でも、好意を寄せられるのは悪い気がしないものだ。少し冷たくしすぎたかな、と思いながら立ち去る彼の背を見送る。
 そこに「あれぇ」という上司の大きな声が聞こえてきた。
「孝平くん、さっきから姿見えないけど、大丈夫かな。トイレ?」
「たぶんトイレですよね。それにしてももう30分くらい経っている気がしますけど」
 40代後半のベテラン女性社員が答えた。宴会場には心配する声が飛び交うものの、誰も見に行こうとはしない。
 ちょうどいいタイミングだったから、私は立ち上がった。
「私、トイレついでに見てきますね」
「おっ、なおちゃん、頼んだよ」
 上司は無責任な感じに手を振って私を送り出してくれた。
 襖を閉めて通路に出ると、空気がひんやりとしていて気持ちがいい。とりあえずトイレに向かう。孝平くんの姿は見当たらないが、気にせず女子トレイに入った。
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