恋するバンコク
プロローグ
 ファーストキスの相手は女の子だった。
 結が九歳のときである。

 その日もいつものように、結たちはコンドミニアムの前の歩道の端にしゃがみこんでいた。アスファルトの歩道は、子どもが半端に積み重ねた積み木のようにでこぼこと重なりあっている。下水の蓋になっている鉄板が緩んでいて、ひっくり返った鉄板とアスファルトの間に足をとられて怪我をする人の話をよく聞いた。だから結たち小学生は、絶対に鉄板の上を歩かないように親たちからきつく言われていた。

 車道を挟んで対岸の歩道に並ぶ屋台は、魔女が取引する闇市みたいだ、といつも思う。土埃にまみれて色ばかり明るいビニール袋を被せただけの、屋台というより野営テントが集まったようなその区画では、見た目で判断できないものも沢山売られていた。

 串刺しにされている焼き鳥、ピンと張った透明の袋に詰まった漬物。暑いのに常温のまま置かれてるシュークリームみたいなお菓子。ミキサーで砕く生ジュース。いろんな匂いが混ざり合って、いつもこの辺はツンとした匂いがする。

 日本の屋台とは全然ちがう、と結は思った。去年の夏、お盆に帰ったとき行った日本のお祭にも沢山の屋台があった。溶かしたチョコをかけたバナナとか、杏飴とか、赤いきれいな金魚とか。縁日はきらきらしたもので溢れていた。だけどこっちの屋台はちがう。なんだか全体的に生々しい。
母親には、お腹を壊すから買っちゃ駄目よと言われていた屋台が、それでもなんだかいつもある種のふしぎな魅力をもって結を誘いかけていた。

 ぎゅうぎゅうに並ぶ車の間を、縦に並んだバイクが縫うように走る。そしてその端っこの、あるか無いかの歩道を歩く人たち。日本人より浅黒く、アフリカンよりは白い。日本語よりも早く聞こえるこの国の言葉は、語尾ばかりがやけに丸く伸びる。同じ早口でも、中国語のように一語一語が固く詰まったような印象は受けない。この国の人たちと同じ。丸く、のびやか。

 タイの首都バンコク。ここに結は住んでいた。

 目の前を通り過ぎたバイクが、隣に座る彼女の声をかき消す。結は振り向いて尋ねた。
「アライ?(なに?)」
 尋ね返す結の細い腕を、同じく細い手でその子はクンと引っぱった。彼女の褐色の肌と、そこに嵌まる大きな目が近づく。その目が夕陽のように光っていて、結は彼女が泣いてるんだと気づいた。

「ヨウちゃん」

 咄嗟に彼女の名前を呼びかけたその口は、それ以上なにも言えなかった。涙で湿った唇が、やわらかく言葉と唇を遮った。

 親友の女の子にキスされている、という事実に、離れた唇を見てようやく理解した。
 歩道を歩く大人たちが、振り返ってこっちを見たのがわかる。驚きすぎて却って無反応でいる結にむかって、ヨウは早口でなにか言った。けれどその言葉は脳内でうまいこと訳されてくれない。ヨウと遊ぶうちにずいぶん聞き取れるようになってきたタイ語だけれど、ネイティブに本気のスピードで話されるとやっぱりついていけなかった。

 ピューッと指笛が聞こえて後ろを振り返る。コンドミニアムのロビーの前で、ノアとアッシャーの兄弟がこっちを見て騒ぎ立てていた。今起きたことを確認されたみたいで、恥ずかしくなる。
 ひっく、という音に再びヨウを見ると、彼女は泣きながら俯いて、両手を自分の首の後ろに持っていっていた。じっと見ていると、長い黒髪をかきわけて洋服の下から首に下げていた革紐を取り出した。
「これあげる」
 ヨウの言葉に、目の前でぶら下がるそれに手を伸ばす。茶色の皮紐の先に、大粒の涙の形をしたペンダントヘッドがついていた。陶器でできたそれは、エメラルドを水に滲ませたような淡い色をしている。白っぽいところと緑が艶めいてるところがまだらにある美しいペンダントを、結はウットリと見つめた。
「ユイ」
 ヨウが名前を呼んで、視線を上げる。ヨウの黒くて大きな目が、濡れて鹿のように光っている。頬に涙の跡がいくつも走っていた。
「私のこと、忘れないでね」

 途端に、結の目からもポロリと涙が零れた。涙が結の日に焼けた頬を滑り落ちて、手の中で光るペンダントにパタリと落ちて砕ける。
 二人は固く抱き合って泣いた。後ろでからかっていた少年たちは、突然泣き始めた女の子二人を持て余したように顔を見合わせて逃げていった。

 二人して泣きながら、どのくらい時間が経っただろう。ふと気がつけば、彼女の母親がコンドミニアムの門のところ立っていた。束ねた髪を耳の上で結い上げて、色あせたエプロンを付けた彼女が、大きな箒を片手に持っている。足元はゴム長靴だ。

 結の視線を追うように、ヨウが振り返る。諦めと失望の混じった吐息を小さく吐いて、母親にむかって頷いた。

 ひらり。
 結よりさらに数センチ低い小さな体が腕の中から抜け出る。涙の残る目を少し乱暴にこすったヨウは、それまでとはちがうどこか決然とした顔を見せた。そして、また早口でなにか言った。やっぱり聞き取れない。けれどまたたきで最後の涙を払い落とした彼女は、反応のない結の様子も気にせず満足そうに目を細めた。

 彼女はそのまま母親のもとへと駆けていった。母親は娘を待っている間、さっき降ったスコールが運んできた葉屑を慣れた手つきでかき集めていた。ヨウの母親は、このコンドミニアムのアヤ(お手伝いさん)だった。

 結の開きかけた口が、ヨウ、と小さく呟く。母親と話しはじめたヨウが、もうこちらを見ないだろうということはなんとなくわかった。
 
 お別れだ。

 手の中のペンダントをぎゅっと握る。さっき弾いた涙は、もう跡形もない。コンドミニアムの門をくぐり、スタッフ用のエントランスに向かっていく親子の後ろ姿を、立ち尽して見守っていた。

「バイバーイ!」

 たまらず大きな声を出すと、クルッとヨウが振り返った。もう泣いてない。かといって笑ってもない。なにかを堪えてるような顔が、遠目にも親友を少し大人に見せた。

「ジューマイガンナー!」

 その言葉で、また涙が盛り上がる。ぶわっと視界が滲む内に、ヨウはエントランスの向こうへと姿を消していた。
 
 ヨウが去った後も、その場に蹲って涙を手の甲で拭っていた。
「もしかして、日本に帰るの?」
 顔を上げると、ノアとアッシャーのお母さん、ペップナンが立っていた。面食らった兄弟たちは逃走した後、母親を呼びにいってくれたらしい。ペップナンの後ろで、こちらの様子をそわそわと窺いながらフットボールをしている二人をチラッと見る。
 結は俯いてコクンと頷く。

 日本に帰ることが決まったよ。
 父親に夕飯の席で言われたのは三日前のことだ。プルプルと体の内側が震えて、小さな身体には収めきれないいろんな衝撃が体の中をはしった。そのなかでも真っ先に考えたのは、親友になんて言えばいいか、ということだった。 
 
 あらぁ、ともまぁ、ともつかないペップナンの声が聞こえる。反応されたことで、結の小さな心は一層大きく揺れる。涙がアスファルトにポタポタ落ちていく。
「ジューマイガンナーって。もう、会えないのに」
 
 ジューマイガンナー。
 また会おうね。

 こんな遠い場所、結ひとりではとても来れないのに。そうおもったら、涙がとめどなく溢れた。

「ノーンユイ(結ちゃん)」
 ペップナンが、結と目線を合わせて慰めるように微笑んだ。
「とても素敵なペンダントね。ヨウにもらったの?」
 結は小さく頷いた。結の手の熱が移って少しぬるくなったペンダントを、プップナンに見えるように手を伸ばす。
 ペップナンはニコニコしながらペンダントを見ていたけれど、ふいに裏をひっくり返したときに表情を変えた。驚いたように目を見張ったのを見て、首を傾げる。
「どうしたの」
 
 ペップナンはハッとしたようにこちらを振り返って、次のときにはもう元のにこやかな笑顔のままだった。それから、大事な秘密を打ち明けるように結に向かってかがみこむと、少し声を小さくして言った。

「結ちゃん、このペンダントを無くさないことよ。大人になるまで大切に持ってなさい。そうしたらきっといつか、素敵なことが起こるから」
 ペップナンはそう言って、にこりと微笑んだ。
 手の中に戻ってきたペンダントを、結はまじまじと見つめる。水色と緑色の間に、透明な滴を足して滲ませたような色のペンダント。自分がお伽噺の主人公にでもなったような、ふしぎな高揚感に包まれて、結は大きく首をたてに振った。

「大事にする。おとなになっても、ずっと持ってる」
離れてしまう親友の代わりに、いつも大切に持っていよう。
 九歳の結はそう胸に誓った。
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