恋するバンコク
「た、」
 タワン、という声が塞がれる。結を抱きしめている力は少しも緩まず、辛うじて胸の間で握る拳も叩くほどの隙間がない。

 息が、くるしい。

 吐息さえ奪いつくそうとしてるように、激しいキスだった。ストイックなスーツ身を包み、穏やかな笑顔を振りまくタワンからは想像もできないほど。逃げた結を罰するように執拗で、記憶の隅にある元恋人の唇よりも肉厚なそれは、蹂躙といっていい強さで結の唇と舌を食んだ。
「――――は」
 どれだけ時間が経ったのか、嵐のような口付けはお互いの荒い息遣いが室内に充満することで終わりを見せた。
 抱きしめられたまま、ぼうっとタワンを見る。キスの所為か、彼の瞳が一層重たい黒に見える。鼻梁や瞼の窪みが日本人より深くて、同じ目と髪の色なのに彼が異国の血を引く人だとはっきりと告げている。

「ユイ」

 びくり、と心につられるように体が小さく跳ねた。名前を呼ばれただけなのに、なぜか淫靡なことをされたように顔が赤く染まった。
「選んで」
 結をひたと見据えたまま、タワンは結の頬を片手で撫でた。ひとさし指の先だけ固いその皮膚の感触にまでゾクリとして、背筋をなにかが這い上がる。まるで発情した猫のような反応を見せる自分を自覚して、ひどく狼狽した。

こんな自分は知らない。高志と付き合っていた頃だって、もっと冷静だったのに。
 キスひとつで、どれだけ心をむき出しにされてるんだろう。情けなくて泣きそうだ。
 
そんな結の心境を無視して、タワンは淡々と言った。
「今ここで僕のものになるか、ホテルに戻るか、どっちがいい?」
「…………え?」
 言ってる意味がわからず、ぼんやりと相手を見上げる。タワンは考えの読めない笑みを口の端に浮かべた。
「わかってないね、結。ここは僕の家だよ。今このまま君を抱き上げて、ベッドに連れ込むことだってできる」
 あまりに直接的な表現に、肌の下からじわっと汗が滲んだ。タワンは愕然としている結の表情をいっそ愉しむかのように身をかがめた。
「もしかしたら結もその気なのかなって思ったけど、ちがう? キスには熱烈に応えてくれたじゃない」
 瞬間、考えるより先に手を振り上げていた。けれどそれは、タワンの頬に当たる前にきつく握られる。
 真っ赤になった頬に、恥ずかしさと悔しさでうっすら涙が浮かんでくる。力いっぱい手を振り払おうとしてるのに、つかまれている手はカフェオレ色の手から抜け出せない。昨日からこんなことばかりで、いい加減頭の中がパニックになる。
「最低!」
 日本語で叫ぶと、表情ひとつ変えずタワンも日本語で返してきた。
「じゃあ、ホテルに戻る?」
「戻るわけないでしょ!」
 反射的に応えると、わかった、と小さく呟いたタワンはサッと結の手をほどいた。
 一瞬後、視界が反転する。
 膝裏と肩の下を持ち上げるタワンに、上からニコリと微笑まれた。お姫様だっこ、という場の雰囲気に合わないマヌケにかわいい言葉が脳からポロリと出てくる。予想外のことに怒りも停止した。

「じゃあ、僕の寝室だ」

 そう言うと同時にタワンは靴を脱ぎ捨て、そのまま部屋を突っ切った。閉じていた扉を開けて、ダブルかキングか――とにかく大きな白いベッドが占拠しているその部屋に結を連れ込む。
 ざっと血の気が引いた。抱えられている両手をバタバタと動かして叫ぶ。
「ちょっとやめて! タワン!」
 窓からの陽光で白く発光しているベッドシーツを、恐ろしい怪物のように避けようと身じろぎする。タワンは一向に構わず、暴れる結をそっとベッドに横たえた。たまらず降ろされた瞬間起き上がると、それを阻むようにタワンが結の両肘の脇に手を突き覆いかぶさってきた。二人分の重みでピンと張ったシーツに皺ができる。
「タワ――」
 脅えが混じって懇願するような響きの声は、ぎゅ、と強く抱きしめられて止まった。背中に回る両腕が、結の細い腰と薄い背中を包み込む。なにかとても得難い大切なものを包むような抱擁。耳元を浅く呻いた吐息が掠める。

「ゆい」

 声に滲んでいるのは苦悩だった。おもわずバタバタと動かしていた手足を止めて、少しだけ首を動かす。
 長い前髪が顔の上半分を覆っている。前髪の奥から覗く目が、眩しいものを見ているように眇められている。苦しそうな、泣きそうな。目が合って、結ははっきりと理解した。

 自分はこのひとを、とても傷つけたんだ。

「わかってないんだ。どれだけ僕が君を好きなのか」
 わからない。わかるはずもない。だって出会ってまだたった十日だ。自分のなにが彼を魅了したのかなんて、想像もつかない。
 タワン。呟く声がタワンの唇に吸い取られる。舌で絡み取られた言葉が、逆行して結の内側に響く。タワン。追いかけて連れ戻して、全身で情熱を伝えてくるひと。

 ベッドカバーが音もなく沈む。ドキンドキンと胸の内側を破るように高鳴る心臓が、思考を削いでいく。キスをしながら優しいしぐさで髪を撫でられて、こんなこと、高志は一度もしてくれなかった、とぼんやり思った。 
タワンが髪を撫でたまま閉じた瞼にそっと唇を乗せるから、体の力がぬけていく。感覚だけが敏感になって、いつもどこか片隅にちらついていた元恋人の影が消えさっていくのを感じた。

 こんなこと、あってはならないことなのに。恋愛も火遊びもごめんだ。そうおもってるし、たしかに一瞬前までそんな気はなかった。なかったのに、優しく結に触れるこの固い指先を、拒めなくなっているのは何故なんだろう。
 ふいに、タワンがタイ語でなにか囁いた。呻き声に近いその小さな声は、なにを言ってるのか聞き取れない。目を開けると同時に、タワンは結から手を離すとシーツに握った拳をこすりつけた。
 眉間に強く皺を刻んで、忌々しげにシーツを睨んでいる。
「できるわけない」
 はぁ、と苛立たしげに呟いて、タワンは起き上がった。ぐしゃぐしゃ、と顔を勢いよく手で擦っている。
「意味ない、体だけなんて」
「……タワン」
 のろのろと起き上がって、乱れた髪を手櫛で直した。心臓がバクバク鳴っている。真昼間にタワンの寝室で二人そろって座り込んでる、この状況を今さら理解して体が震えた。でもそれは、恐怖とはちがう、なにか自分でもよくわからない体のざわめきだった。
 タワンは結の顔を見ずにベッドから降りると、ハーッと長い息を吐いた。結に背を向けたまま、低い声で言う。
「送ってあげるから」
 空港に送り返されるんだろうか。
 それを望んでいたはずなのに、なぜか心の奥に冷たい風がひやりと流れた気がした。
「頼むから、ホテルに戻ってくれないか。働くのが嫌ならそれでもいい。けど」

 いなくならないでくれ。

 小さな声は、震えているように聞こえた。頷くこともできずに、黙ってその背中を見つめる。首にかけたペンダントの真後ろで、心臓がドクドク言っている。
 まるで、ペンダント自体の鼓動のように感じた。
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