恋するバンコク
「ね、きれいでしょう」
 にこりと微笑んで振り返るタワンに、曖昧に頷き返す。
 たしかに、きれいだけど。
「……ご飯を食べるんじゃないの?」
 ここで飲食なんていくらなんでもできないだろうと思う。罰があたりそうだ。
 五時四十五分。漆黒にはまだ早い、薄紫と薄い青を混ぜたような空の下、金色の塔がいくつも聳え立っている。
 ワット・ポー。
 チャオプラヤー川を船で渡って十五分ほどいったところにある、バンコクを代表する寺院。それが今、目の前にあった。
 肘を突いて横たわる金色の寝釈迦仏が祀られていることで有名なワット・ポーは、釈迦を取り囲むように四基の塔が建っている。その塔は昼間に来ればそれぞれ微妙に異なる色で細やかに細工されている模様を見ることができた。ガイドブックにもよく載っているし、ホテルに泊まる日本人観光客に行き方を聞かれることも多い。だからこんなウンチクもいつの間にか覚えていた。
 塔は今、昼間とはまったくちがう顔を見せていた。紫色の空を背景に金色にライトアップされ、幻想的な佇まいを見せている。塔の細い細い先端まで、金色に発光して佇むその様は、荘厳な美しさを保っていた。

 いまなに考えてたんだっけ、ということも忘れて少しの間ぼんやりと見入る。多くの観光客が午前中や昼間に来るからか、閉演時間まで三十分を切った境内に人はあまりいなかった。結も昔住んでいたとき、この寺に両親と来たのは昼間だった。ひたすら暑くてボーっとしたことしか記憶にない。

「あっちは本堂だよ」
 そう言うタワンがあたりまえのように結の手を取る。少し前まで、この手を触られただけで頭が白くなるほど驚いてたというのに。今も驚きはしても、諦めのほうが勝ってしまっている。
 手をつないで観光名所を歩いて。これじゃ本当にデートだ。
 ふぅ、と心中で嘆息して、それなのに諦めの中にどこか甘さを感じてしまうのはなぜだろう。手を引かれたまま顔を上げれば、タワンがにこりと笑みを浮かべた。屈託のない笑顔。落ち着かずに視線をそらして、握られた手の熱を強く感じた。
 まったく、どうすればいいんだろう?

 本堂には、自分と同い歳くらいのタイ人カップルが一組いた。時間が遅いから、彼らのほかには誰もいない。おもわず笑ってしまったのは、隅のほうで寺院のスタッフが掃除機をかけていたからだ。金色の高い台に座している黄金の仏像と、その下を飾るいくつもの桃色の花。その端で灰色の家庭用掃除機が、ウィンウィンと音をたてている。いくら人が少ないからといって、神聖な場所の裏側を見せていいんだろうか。こまかいことにこだわらないタイ人の気質が表れている光景だった。
 
 同意を求めるように笑ったまま隣を振り返ると、タワンは結を見ることなく仏像の前に歩み寄った。慣れたしぐさで線香に火を灯して、その場に跪いた。
 手を合わせ、なにかを願うような沈黙の後、土下座のように額ごと両手を地面につける。タイ人のカップルも、少し手前で同じように額を地面に擦りつけている。彼らのしぐさはとても自然で、産まれた時から幾度となく同じ祈り方を繰り返しているのがわかった。
 掃除機を持ったスタッフは相変わらず部屋の隅を掃除している。黒いコードが床に伸びる。ウィンウィンウィン。機械音が低く唸る。タワンはまだ額を地面につけている。伸ばされた腕が地面に張りつく、静かなその後ろ姿。

 外国人なんだ。

 改めておもった。こんなに真摯に、祈りを捧げている。朗らかに笑ったとおもえば情熱的に結を求め、そしてこんなにも静謐な空間を教えてくれる。

 簡単に近づくことはできないように思えて、少し離れたその場所から手を合わせ、手を合わせてからなにを願うか逡巡する。
 家内安全? 仕事みつかりますようにとか?

「ユイ」

 目を開けると、いつのまにかタワンが目の前まで来ていた。にこりと笑う無邪気で朗らかな笑顔。いつもと変わらないのに、なぜか胸の奥がツン、と狭まった。
 心の奥がざわざわと鳴る。理由のわからない衝動に駆られて、一歩近づく。いつもよりもそばに立つ。まるですり寄ってるみたいだ、とそうしてから気づいた。
 なにやってるんだ私。
 両手を後ろで組んで、自分を制するみたいな姿勢を取る。笑顔を作って、
「なにお願いしたの」
 自分の思考から気をそらしたくて尋ねる。出入り口に置かれた靴箱から靴を出したタワンは、内心慌てている結には気づかない様子で微笑んだ。
「ユイが」
 僕を好きになりますように、とか? 勝手に先を読んで、照れた口元に力がこもる。

「幸せでありますようにって」

 トントン。
 タワンがつま先を地面にあてて靴を履く。さっきよりも濃い色の空は、菫色と黒の間。少しだけ強い風が肩に垂れる髪をかきあげた。
 目があったタワンが甘く笑う。結は口元を手で覆った。
 暗くてよかった。
 顔が熱い。
 
 ドキドキしている。
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