恋するバンコク
 結が働き始めた中で一番長く感じた日が、ようやく終わった。疲れとその他諸々のモヤモヤを、今は考えないようにしながらスタッフ用の廊下を歩いた。
 ぼうっと歩いていると、アイスが後ろから追いついて横に並んだ。
「今日なんか大変そうだったね」
 結がなにか言うより早く腕を絡ませて来て、興味津々と言った顔で結を覗きこむ。
「さっき一緒に出てった日本人、あの人でしょ? 前に言ってた元彼って」
 結は仕事用にセットされた髪から櫛を抜き取って、髪をおろすと息を吐いた。
「……そうだよ」
「アウッ!」
 驚いた時のタイ人がよく出す叫び声が、疲れの溜まる頭を直撃する。眉間に皺を寄せてこめかみを揉む結に、
「もしかして追いかけてきたの? 女と一緒に来てたよね。あの人でしょ、二股相手って」
「あのねぇ」
 いつかの夜に打ち明けた失恋の話。アイスは思いのほか色々覚えているようで、場所も頓着せず話そうとする。
 部屋帰ってから、そう言おうとするその前に、
「僕も聞きたいな」
 すぐ後ろから声がして振り返る。
「……タワン」
 腕を組んでタワンが立っていた。
 
 彫りの深い眼は少しも笑ってない。お客にレストランの行き方を案内する時に浮かべる営業用の笑みが、口の端に乗っているだけだ。
「私、先帰ってるね」
 なにを思ったのか、結の腕に手を絡めていたアイスはすっとそこから抜け出し、引き留める間もなく行ってしまった。あっと思わず声を上げる。
 途端に二人の間に沈黙が落ちた。シフトが切り替わる時間だから、廊下を歩くスタッフは少なくない。すれちがいざま挨拶を交わしあうスタッフの声がする廊下で、二人の間だけやけに濃度の濃い沈黙が落ちている気がした。

 今の聞かれてた? どこから?
 知られたくなかった、高志のこと。タワンには。
 
 ふいに、強い力で手を引かれた。歩き出すタワンに引っ張られる形で歩きながら、面喰らって叫ぶ。
「ちょっと? どこ行くの」
 タワンは答えずに足早に廊下を歩く。すれちがうスタッフが驚いたように二人を見ても、気にしてないようだ。
給湯室を通り過ぎた時、中にいるスタッフにタワンは歩みを止めずに告げた。
「一時間だけ出るからなにかあったら連絡して」
 早口でそう告げると、結の手を握ったまま裏口へと向かう。タワンの言葉に呆気にとられたのはスタッフだけではない。結も手を引かれながら呼びかけた。けれどタワンは一切取り合ってくれなかった。

 ホテルの裏口に停まっていた車を少し乱暴なしぐさで開けたタワンは、そのまま結を助手席に座らせた。ねぇ、とかちょっと、とか言ってる間に発進した車はほどなくして停まった。
 一度だけ行った、タワンのアパート。
 
 ガチャン。
 
 美しいエントランスやロビーに見惚れる間もない。性急なしぐさでエレベーターに押し込められると部屋まで連れていかれた。バタンと閉じた扉の音を背中で聞いた。
「タワン、一体なんなの」
 混乱してる、という気もちが伝わるように、大きな尖った声を出した。
 それにさっきから、心臓がうるさく鳴って困っている。そんな自分をごまかしたかった。

 高志と話しているときにタワンを思い出していたこと。
 このことを自分のなかでまだ、もう少しよく考えたいのに。

 それなのにタワンは考えるヒマも時間も与えず、ドンと両手を結の顔のすぐ脇の扉に置いた。間近でタワンが結を覗き込む。日本人より高い鼻。堀の深い甘い目元。
 この状況。
 固まった結の頭の中で、不埒な映像が再生される。
 この間と、同じだ。
 この間――タワンにキスされた時と。

 途端、顔に熱が昇る。思い出してしまう。肉厚な唇が柔らかく自分のそれを食んだことや、熱い舌の感触――。
「あの男、ユイの恋人? バンコクに来たのは、あいつの所為?」
 目を見開いてタワンを見る。気づけば、高い鼻が触れそうなほど近い距離にいた。
「まだ、あの男が好き?」
「――――」
 ぴたり。呼吸がとまった。タワンの黒いビー玉みたいな目。が、なにを考えてるのかわからない。
「――――っ」
 なんだかむしょうに腹が立った。こっちはこんな、キスとか思い出してるっていうのに。

 怒りに任せて、ドンと両手でタワンを突き飛ばした。ふいを突かれたように軽く後ろに引いて、でも大したダメージを受けてなさそうだ。涼しげに結を見るその顔が、余裕の無い自分には癪に障る。
「もう終わってるわよ。一緒にいた人、婚約者だって」
 婚約者、とさらりと言えた。タワンがわずかに目を見開く。表情が変わって、自分でそうしたはずなのに、言ってしまった後悔が早速頭をよぎる。視線に耐えきれず顔を背けた。
「知らなかったの、そういう人いるって。馬鹿みたいでしょ」
 タワンはどう思うんだろう。
 こんな結のことを。

 ざり、と靴音がして、タワンが近づいたのがわかった。顔を見たくないし、自分の顔はもっと見せたくない。
そのまま横を向いていると、ふいに首筋にタワンの手が触れた。
「っ」
 固い手の腹が結の首筋をたどる。驚いて身をよじるその間に、タワンの指先が首の後ろに回り、襟元の下から皮の紐を引っ張った。
 音もなく、ペンダントが制服の上にこぼれ出た。

「なにす――」
「あんなやつより僕の方が絶対に、君を幸せにできる。昔からそう言ってるだろう?」
 振り返ると、タワンが静かな目で結を見ていた。

 ――――昔?

 タワンの指先が皮ひもをたどって、先端にぶら下がっている雫の形のペンダントヘッドを掌に乗せる。いつの間にかまた距離が近づいている。混乱する頭で、結はタワンから目が離せなかった。
 ペンダントヘッドの雫を見たタワンが、ふっと表情を和らげる。

「君のことを愛し続ける。必ず幸せにする」

 ガタガタガタ。
 アパートの廊下のどこかで、作業員が台車を引く音が聞こえる。ガタ、バタン。近隣の部屋の扉が閉まる音。日本とちがってアパートの扉はどこもホテルと同じくらい薄い。
 タワンが顔を上げた。長い睫毛がもたらす陰影、前髪の影。間近に香るどこか甘いタワンの匂い。
「ここには、そう書いてあるんだ」 

 ここ。

 視線を、示された場所へと下げる。
 水色と若葉色が混ざった色の、涙の形のペンダント。
 カフェオレ色の指先が、くるりとそれを裏返す。ゆるく捻じれる皮ひも。
 ペンダントの裏側。刻まれた文字。

「――タワン?」

 このペンダントを無くさないことよ
 大人になるまで大切に持ってなさい。そうしたらきっといつか、素敵なことが起こるから。
 
 ペップナンだ、と唐突に思い出す。
 昔結にそう言った人は、そんな名前だった。
 ペンダントを見せて、裏返した彼女は少し驚いて――。

 「タワン?」
 ドクン。鼓動が音を立てて、突き動かされるようにもう一度名前を呼んだ。
 タワンがにこりと微笑む。甘い、笑み。

「昔はヨウって呼んでくれてたね、ユイ」
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