恋するバンコク
「ユイ!」
 声に視線を向けると、リネン室からルームメイトが出てきたところだった。
「アイス」
 アイスはバタバタと両手を振って駆け寄ってきた。隣に立つと、結の腕を後ろから引いて身を寄せる。タイ人は日本人の女の子よりもスキンシップが強い。同性同士でも手を繋いだり腕を組んだりと、普通にしてくる。
「アライ?(何?)」
 アイスがギュッと強く腕を握る。アーモンド形の目が、興奮にキラキラ輝いてる。
「今カウンターに来たお客さんね、日本のテレビクルーなんだって。バンコクを紹介するっていうんで、ウチにも取材が入ったみたいよ」
「へぇ」
 
 ほら、とアイスが指さす。ロビーのカウンター前で、丸めた書類を片手に持った太った男の人がタワンに向かってなにか言っていた。こちらに横顔を見せるタワンは、男の話に相槌を打つように何度か頷いている。少し離れたところに立つ若い女の子はリポーターだろうか。彼女を中心に、数名のスタッフが周りを取り囲んでいる。

 珍しい集団の登場に、いつもは静かで穏やかな時間の流れるロビーもどこか落ち着かない。ホテルマンたちは離れたところで結たちのように様子をうかがい、ロビーに座るお客たちも何事かというようにタワンたちを眺めている。インド人の子どもの兄弟が二人、好奇心に満ちた様子でその周囲をクルクルと走り回っていた。
 そんな中でも当然お客は現れる。ドアマンが引いた扉の向こうから、中国人の四人家族が現れた。アイスから離れた結はスーツケースを受け取りに歩き出す。四人家族で荷物の量が多いので、カウンター脇に置いている金色の台車を取りにタワンたちの近くを通り過ぎた。
「サワディーカー」
 胸の前で両手を合わせたワイのポーズ。重いものから順にスーツケースを並べていく。この数日で、前に比べて上腕の筋肉が着いた気がする。重っ。そうおもっても笑顔は絶やさない。
 客人を部屋まで案内する結は、テレビクルーたちがじっと自分を見ていることには気がつかなかった。

 荷物を部屋まで送り届けた後、アイスに声をかけられた。
「ユイ、930号室から内線あったよ。日本人スタッフに用があるんだって」
「わかった」
 930号室とえばデラックス・スイートルームだ。部屋になにか不備があっただろうか。できるだけ急いで部屋へと向かう。
 デラックス・スイートは他の部屋とはちがい、扉脇にチャイムが設置されている。ピーン、と高い音が鳴るチャイムを押すと、扉を開けた人を見てわずかに目を見開く。
「あ、やっぱり君日本人だよね」
 ドアノブを握っていたのはさきほどロビーにいた太った男だった。あ、はい、と戸惑いつつ頷けば、まぁまぁ入って、と肩を組まれ中に引き込まれる。
「君と話がしたくてね」
「え、あの」
 部屋にはリポーターの女の子が椅子にちょこんと腰掛けており、テーブルを挟んだ向かいにはタワンが座っていた。
「ユイ?」
 振り返ったタワンが驚いたように立ち上がる。面食らっているのは結も同じだった。

 なに? なんで?

 太った男はタワンと結を見比べて笑って、
「まぁまぁいいから座って座って。あボク風間っていいます。これ名刺ね」
 結の手に名刺を握らせタワンの隣の椅子に促す。
 風間は頭をかきながら、
「今ね、こちらのホテルさんに取材させてもらってるんだけど、若い日本人の女の子が働いてるっていうなら、そういう画も欲しいなと思ってね。ちょっと密着取材させてもらうことってできるかな? アジアで働く乙女の一日、みたいにしてね」
 結は驚いて目を丸くした。
「いや、私は」
 結がなにか言うより早く、タワンが遮るように言った。
「申し訳ありませんが、それはできません」
 断られると思っていなかったのか、風間はタワンを見て目をムッとしたように口を噤む。タワンは怯むことなく、結を正式に雇っているわけじゃなく、企業インターンシップのようなものだと説明した。
「えぇ、そうなの」
 風間は大きな声を出すと太い腕を組んだ。
「ほら、ここって海とか川の近くでもないし、今のままだとイマイチ画がなぁ、さびしいんだよなぁと思ってね」
 風間は首を伸ばして、ねぇそうだよねぇ、と少し離れたところに立つスタッフたちに同意を求めている。風間の言葉に、タワンの横顔がピクリと張りつめたのがわかった。結はおもわず唇をかみしめる。
 たしかにサワン・ファーホテルは市街にあるから、どうしても昨晩行ったようなホテルから見るような景色は提供できない。だけどその分空港やショッピングへのアクセスは良いし、内装の雰囲気は競合ホテルにも負けてない。タワンが忙しい合間を縫って他のホテルを見に行ってることもわかっている。だからこそ、アッサリとそんなことを言う目の前の男に腹が立った。

「あの、あまり顔を映さないようにしていただけるなら」
 気がつけばそう言っていた。タワンが驚いたようにこちらを見る。そちらを見ずに、風間だけに視線を向ける。
「名前とかも、出すのやめてほしいです」
「あーそんなの仮名を充てておくから大丈夫! やってくれる?」
「あと、本当に私雇われてるわけじゃないので、その辺りもなんか、文章とかで」
「うんうんわかったわかった!」
 そう答える風間はもう結を見ておらず、突き出た腹を揺らしてスタッフに指示を始めている。言ってしまった、と今さらながらにドキドキしてきた結を、タワンが眉に皺を寄せてじっと見ている。

 だって仕方ないじゃない。ごまかすように苦笑を返しながら、胸の内で言い訳する。
 せっかくタワンががんばってるのだ。自分にもできることをしたい、とおもった。
 私が映ることで、この人たちがこのホテルを沢山宣伝してくれるなら、それでいい。
 海が見えなくても、サワン・ファーホテルは青い楽園なんだと、たくさんの人にそう思ってほしかった。
< 7 / 40 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop