砂糖漬け紳士の食べ方


エレベーターの回数表示が上がる度。
きらびやかなマンションの造りを目にする度。
廊下を一歩進む度。

まるでアキは鉛を飲みこむような息苦しさを覚えた。


この日のために一応買ってみたベージュの新品ワンピースも、なんだかひどく年代遅れに見え始める。


「へ、へんしゅ、ちょう、やっぱり、やっぱりやめましょう」

「なーに言ってんの」

「だって、マスコミ嫌いなんですよね?無理に嫌な所こじ開けなくてもいいと思います」

「大丈夫、伊達大先生はマスコミ嫌いっていうより人嫌いだから」

「それってさらに酷いじゃないですか!何でそういうことを直前で言うんですか!」

「まあまあ、言ったって何も変わらないでしょ。はい、到着ー」


編集長は実に爽やかにスーツをなびかせ、ある一室の前に立つ。

2504号室。
先程編集長がインターホンをかけた部屋だ。


アキの弱い決心を決めないまま、編集長の太い指はやすやすと呼び鈴を押した。

先程のインターホンであれだけ胃の物を吐きそうになったが
もしかしたら今だったら、胃そのものを吐き出せるんじゃないか?

そう思わせるほどのけたたましい吐き気がアキを襲う。



時間にすると、ほんの10秒ほどのことだ。

しかし彼女には気の遠くなるような沈黙が続き、そしていよいよ玄関ドアのノブがゆっくりと動いた。




「…はい」


玄関ドアの隙間から顔を出したのは、ひどく疲れたような風貌をした男性だった。

その黒髪はぐしゃぐしゃで手入れなんかせず、しかも目の下にはクマすら浮かんでいる。



この人が伊達圭介ですか?

そう編集長に確認するまでもなく、編集長の快活な声が廊下中に響く。



「やあやあお久しぶりです、伊達先生!お元気そうで」



アキの目は、編集長と、編集長から『伊達先生』と呼ばれた男の顔を3往復した。

実に3往復。
「まさか?」「この人が?」「うそでしょ?」という疑問のままに。



「お久しぶりです山本編集長…散らかってますが、どうぞ」


男は、編集長の横にいたアキに目もくれないまま、再び室内へと体を戻した。


「それではお邪魔致します…ほら、いくぞ桜井」

「は、はい」



玄関も、それに続く廊下もリビングも、整然としていた。

というよりも、必要な生活用品以外は置いてない、という表現の方が正しいのかもしれない。

やろうと思えばいくらでも装飾が出来るスペースのあるマンションなのに、玄関の靴箱の上にすら何も置いていない。
写真立てもなければ観葉植物もなかった。



更にアキは、先を行く男の後ろ姿を見て茫然とした。


くしゃくしゃな黒髪。
くたびれた白いYシャツ。
これまたくたびれたジーンズズボン。
そしてもって、裸足だ。

長身で、確かにスタイルはいいかもしれない。


…でも変人だ、こんな格好、変人に決まってる。



彼女は無意識に、タルトの紙箱を抱きかかえる。


リビングも玄関と同様、全くの装飾物がなかった。

ピカピカのフローリングに、小さなソファと木製のテーブル。
その広さに相反するテーブルの小ささに、男が来客を想定していないことが分かった。



「コーヒーでも淹れますのでおかけください」



男が振り返る、一瞬。

長い前髪に隠された目が、一瞬だけアキをとらえる。


びくりと肩を震わせたのはアキだけだ。

けれど男はそのままキッチンへ姿を消していった。



自分の視界に彼がいなくなったことで、ようやくアキは大きく息を吐き出す。

編集長といえば、妙に手慣れた様子で身近にあるソファへ大きく腰かけた。



「相変わらず何もない部屋だなー…。何してるんだよ桜井、座ればいい」


アキは紙箱を抱いたまま、編集長の横へちょこんと腰かける。

そもそもソファ自体、二人掛けにはぎりぎりの大きさだ。



「…何で編集長はそんなにふてぶてし……、落ち着いていらっしゃるんですか」

「だって一度会ったことあるもん、俺」

「じゃあ編集長が取材許可もらってください、面接に受かる自信ありません私!」

「その押し問答は前にやったろー?準備してきたんなら大丈夫だって」


ここまでくれば、編集長がやたら口にしてきた「大丈夫」も何の根拠がないと思えてきた。


そうだ、きっとそうなんだ、最初から失敗前提なんだ…
いや、でも、失敗前提ならこんな緊張味わいたくない…!



廊下から、ぺたぺたとフローリングを這う足音が聞こえ
そのすぐ次には男が盆を持ってリビングへ戻ってきた。



「ああ、そんなお構いなくー」編集長がにへらと笑う。


しかし彼は、編集長の上っ面な言葉も無視し、丁寧にカップをテーブルへと並べた。

マグもカップも、柄がばらばらだ。本当に来客が来ることを端から想定していないのだとアキは思った。


「どうぞ」

男は何のためらいも謙遜もなく、アキの前へカップを押しやった。
いまだにアキの視線は男を正面から捕えられていない。


「あ、これ、先生がお好きだと伺ったもので……おい、桜井、タルト」



編集長に脇を小突かれ、アキは慌てて抱きしめていた箱をテーブルへ置いた。


「あっ、はっ、はい!こちらです!お口に合うといいんですが…」


男は「ああ、どうもお気づかい頂きまして」と何の抑揚がない一本調子で返す。
薄い唇も一文字のままだ。

しかし男は「好物」をテーブルの脇に押しやり、コーヒーには手をつけないまま更に続けた。
「先日、山本編集長から伺った件ですが」と。


来た。ついに、来てしまった。


アキの両手はいつの間にか膝の上で固い拳を作る。



「ああー、ええ、そのお話ですね。
ええと、私たちが発刊しております『月刊キャンバニスト』で、是非先生を扱わせていただきたくて」

「…そうですか。それで?」髪の毛くしゃくしゃ男が返す。

「ええ。それで、うちの桜井がですね……桜井、ほらしっかりしろ…
この桜井アキが、是非先生の取材を担当させていただきたく思いまして、こうしてご挨拶に伺ったんです」


「初めまして!桜井アキと申します」



立ち上がり、深々と腰を曲げ、ようやくアキの目が、目の前に座る男へと向いた。



目を隠すような長い前髪。
くしゃくしゃの癖っ毛。
くたびれた白いYシャツ。

…そして、スッと切れ長の目。筋が通った鼻。



この時になって『伊達圭介超絶ブサイク説』は、あっけなく嘘だと分かったのだった。


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