砂糖漬け紳士の食べ方




「くれぐれも、鼻水は拭いてから山本さんのところに戻りなさい。今の君、ひどい顔をしてる」

「えっ」


「ふ、冗談だよ」


慌てて鼻を拭う前に、アキの顔が乱暴に彼の袖口で拭かれた。



「う、大丈夫です、ハンカチ持ってますから」

「そう?」




優しくなんかしないで欲しい。

でないと、私なんかが自惚れてしまうじゃないか。


生殺しするなら、手ひどく扱ってくれればいいのに。

その方が、ずっとずっと良かった。





そう思っても

それでもアキに、口にすれば甘く溶けてしまいそうな想いが去来する。




「…伊達さんって…」


「うん?」



かすれた鼻声に、伊達が彼女の顔を覗き込む。




「伊達さんって、本当は優しい方なんですね…人嫌いの噂なんて、嘘ですね」




それは伊達に対する感謝の言葉と、ほんの少しの本音を混ぜた告白もどきだった。


「ありがとう」と穏やかに笑ってくれるだけで、彼女は充分に満たされるだろう。

それを予見してのセリフだったのに。



しかし彼は、きょとんとして





「好きな女に優しくして、何が悪いの?」




…予想の遥か斜め上をしれっと答えてみせた。





このたった一言で涙がぴたり止まった目は、今度は目の前の伊達を大きく映した。




「……は?」

「何だい、その顔。おかしな事でも言ったかな」


「…あ、いえ…別に、おかしいことじゃ…」



アキの自信の無さは、こういう時こそ上手い言いわけを思いつく。


そうだ、これは聞き間違いに違いないし

なんだかんだ優しい伊達さんのことだ、きっと『年下で妹みたいに気に入ってる子』という意味だろう。

そうだそうに違いない絶対そうだ。



「え、えーっと…じゃあ、あの、私、編集長のところへ戻ります」

「ああ、気をつけて」


「それじゃ…失礼致します…」



言うなり、アキは逃げるようにリビングを飛び出した。

伊達の顔は決して見ないままで、さっきの言葉の意味も咀嚼することなく。


垂れる鼻水を拭きながら、拭きすぎて痛い目をもう一度拭いて、駐車場で編集長の待つ車へ転がり込んだ。



「うおお、びっくりした!どうした、桜井!」



助手席に突然なだれ込んできたアキに、編集長は体をギクリとさせた。



「い、いえ…大丈夫、です」

「伊達先生に何かキツイこと言われたか?何もされなかったか?」



編集長はすぐさま彼女の身を案じてくれたが、アキは苦笑いしか返すことが出来なかった。



「だ、いじょうぶです、…あの、ちゃんと記事を書いてねと、激励されました…」

「…ああ、そうか…なら良かった…」



よくない。全然よくない。


言うなれば、何もされていない訳じゃない。


突然の展開と事実に、心臓はタコ殴りにされたほどに痛いのだ。



何でこのタイミングでそういうことを、とか

何で私なんかに、とか

もうそういう事すら考えず

悩むこと自体をツボに入れて封印して海の底に放り投げる如く、「きっと気のせいだ」「そういう意味で言われたんじゃない」と結論をつけた。


まさしく長年培ってきた、彼女の防衛本能だった。



「編集長、私」

「ん?」


「…この失敗を取り返してもあまるほど、良い記事を書きます」


「お、おう」



アキは無意識に頬に手をやる。

そして自分への自戒を込めて、思いっきりひねりあげる。






気づけば、もう雨はあがっていて

土の匂いがいつの間にか車内まで染み込んできていたのだった。




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