初春にて。
「やだ、痛いってばっ」
 はた、と。その手が止まると、彼が呻くように呟いた。
「……俺な、やっぱり、大学院、辞めるわ」
「……え、なに?」
 唐突に彼が声を荒げた。
「俺、明日教授んトコ行って、どっか何でもいいから、今からでも間に合う就職先、紹介してもらう」
「ちょ、ちょっと。何、急に言いだすの?」
 慌てて振り返ると、彼と間近で視線がかち合う。しかも、彼は眉間に皺を寄せ、怒りとも悲しみとも取れるような顔をしている。
「だって、今のままなら、俺、ただのヒモやんか。あいつらのいい笑いもんのまんまで」
 私は躰を彼から離すと、すっかり俯いてしまっている彼を抱きかかえる。むき出しの大きな背中がすっかり冷え切っていた。
「ねぇ、トモヤ。あなたは私が、啓太とまた縁りを戻すって、思ってる?」
 険しい顔を左右に振る。私は、うん、と小さく頷くと、彼の背に毛布を掛けた。
「トモヤはさ、別に遊んでる訳じゃないよね。ちゃんと研究してるじゃない。第一、あなたがヒモだなんて私、一度だって思った事ないよ?」
 それでもなっ! と。再び声を荒げる彼の背を、私はただただ撫でるしかできない。
 どの分野にしろ基礎研究なんて地味な領域は元々仕事のパイが足りていないし、目先の話題性も華やかさにも欠けるから、予算もやっぱり当たりづらい。それでも誰かがやらなければ、日本の産業技術はつぶれてしまう。
 酔っ払う度に言う、彼の口癖。
 こんなに危機感を持って研究に臨んでいるのは、その必要性を目の当たりにして育ってきたからだ。実際、院生にしてはかなり論文も書いているし、学会発表だって余念がない。
 そんな彼の現状を充分に解ってヒモと嗤ったのは、他でもない、彼ら“元”夫婦だ。
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