結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 悠樹。

 遠くからでもわかる、夏帆を見る悠樹の目。ずっと、ここにいることに気づいてたんだ。
 なにあれ? 周りから声が聞こえる。ステージ袖に立つスタッフ同士が顔を見合わせる。
 
 悠樹は周囲の反応を無視し、一歩前に出た。
「俺、今日はある人たちのために踊りました。いっこは、親父とお袋」
 来てんだろ、と客席を見渡す悠樹に向かって、由果が片手を振った。悠樹は安堵したような笑みを浮かべて、
「来てくれてありがとう。今日はぜったい見てほしかった。それから、もういっこ」
 言葉を区切る。
「俺の好きな人と、その両親にも来てもらいました」
 おぉっとどよめく声。ピューッと冷やかす指笛があちこちで鳴る。

 あいつすげー、なに告白? 観客がおもしろがって手を叩く。ステージの袖で撮影していたスタッフが、ぐっと悠樹に近づいてカメラを向ける。

「行くぞ」
 父が怒ったように歩き始める。夏帆は動けなかった。胸がバタバタと騒いで、視線は悠樹にくぎ付けになる。
 
 なにするつもりなんだろう、あの子。

「夏帆」

 悠樹の声が響く。悠樹の視線を追いかける形で、会場中の目がこちらに向いた。顔がカーッと熱くなる。

 相手あの人? 超年上じゃない? 

 言い合う声が胸の真ん中に刺さった。びくりとしておもわず俯くと、
「うるさい!」
 夏帆は驚いて顔を上げた。悠樹が叫んだ、そのまったく同じタイミングで、

「……お父さん」
 父はハッとしたように手で口を抑えると、気まずげに視線をそらした。母も目を丸くして父を見ている。

 悠樹は一瞬、驚いたように父を見ていた。その後すぐにマイクを持ち直す。
「俺、夏帆が好きです。お父さんが夏帆を大事にするのと同じくらい、俺も彼女が大事なんです」

 そう言ってからマイクを下げ、そのまま片膝ずつ床に下ろし、正座になった。ドキンと胸が高鳴る。
 あのときと同じだ。
 悠樹はそのまま深く頭を下げ、ステージに頭をこすりつけるようにして叫んだ。

「お願いします! 夏帆と結婚させてください!」
「えー!」
 周囲から絶叫が飛び交う。袖から出てきた数人のスタッフも驚いたようにのけ反り、ステージ下の記者たちからカメラのフラッシュがいくつもたかれた。

「おいこら悠樹! このバカ息子!」
 橘の野太い声が響きわたる。数メートル先で叫んでいるのが見えた。
「なに考えとる、おまえ、いいかげん目を醒ま」
 キィィィン。
 マイクがハウリングして、耳障りな音をたてる。悠樹は立ち上がると、マイクを持ち直して、
「俺は今日、一番親父に見せたかったじゃんねぇ! 俺が本気で踊っとるところ、見てほしいじゃん!」
 悠樹の首筋をまた汗が流れていく。踊っているときよりも今のほうがずっと汗を流してるように見える。
 そのときになって、ようやく気がついた。

 悠樹だって不安なんだ。この間と同じ。

 わたし、こんなところにぼうっと立ってなにやってるの?
 なんで一人で戦わせてるの?

 気がつくと動いていた。心臓がバクバク鳴っていて、耳の中からもその音は聞こえてくる。
 ふらふらとステージに向かう夏帆に、皆が道を開けた。あからさまな好奇の視線、野次。今までだったら罪悪感を感じてた、夏帆を傷つけていたそんなものも、今はもう気にならない。ひとの肩と頭の向こうに、悠樹が立ってる。まっすぐに夏帆を見ている。

 アリーナ席を抜けてステージの真下まで来ると、足を止めた。悠樹がこちらを見下ろしている。近くで見ると、体中から汗を流してるのがわかる。桜の下、寝不足の落ち窪んだ目で夏帆を見ていた姿が重なる。
 彼はいつだって捨て身で心を届けてくれる。
 
 誰かがなにか言ってるような気がするけど、耳に入ってこない。自分の鼓動と、なぜか悠樹の鼓動を感じた。悠樹が夏帆に向かって手を伸ばす。夏帆も手を伸ばして、湿った熱い手を強く握り返すと、体がふっと浮いた気がした。
 気がした、じゃなくて本当に浮いていた。次の瞬間、夏帆はステージに上がっていた。

「下りん! 馬鹿かふたりとも」
 囃し立てる大勢の声をかき消す勢いで、橘が真っ赤になって両手を振り上げて怒鳴る。その様子を見ながら、いまさら膝がカタカタと震えはじめた。震えを振り切るように、つないだままの悠樹の手に力をこめる。

「お願いします」
 声はやっぱり震えていた。頭を下げると、涙が落ちていった。

「悠樹君と結婚させてください」

 由果が手で口を覆う。母がなにか叫んでる。

 父はじっと悠樹を見ていた。裏も表も見透かそうとするように。

「後悔するぞ」

 小さな呟きに、夏帆は無言で首を左右に振った。涙はとめどなく流れた。

 ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに。

 呪文のようにくり返す。絶対に、に続く言葉を意識しないまま、強く強く祈った。
 
 父が俯いた。そのまま長い時間が経ったように見えた。橘が片手を上げて怒鳴り、悠樹がなにかを言う。だけど夏帆の耳には入らない。ただじっと、顔を伏せたままの父を見ていた。涙で視界がぼやけるたびに、新たな涙がそれを流れ落としていく。

 おとうさん。

 ゆっくり顔を上げた父の目は赤くなっていた。その赤さにビクリとなる。
「知らん」
 力のない声だった。そのまま、大勢の人の間を引き返して行く。周囲の人が興味津々の顔で父の背中を見つめている。

「お父さん」
 母が慌てて声をかける。夏帆はなにも言えなかった。ふらふらと歩いていく父の背中が薄いガラスのように見えて、涙がとまらなかった。

 母は「もうっ」と肩で息をすると、夏帆を振り返った。結ばれた唇をへの字に曲げて、そういう顔をするとやっぱり私そっくりだ、とこんなときなのに思う。
「こんなところじゃ話せないでしょ。お二人もそう思うわよね」
 母が悠樹の両親に向かって尋ねる。由香が顔を上げると橘を見た。橘は、険しい顔で口を開く。それを制するように母が夏帆たちを振り返る。
「あんたたち、早くそこから下りてらっしゃい」
 母はため息まじりに言った。
「帰るわよ。……話し合いましょう、とことん」

 夏帆と悠樹は顔を見合わせた。会場のスタッフがステージの袖でスピーカーを調整している。別のスタッフが声をかけてくる。時間ないんで、と言ってステージ袖に夏帆たちをおいやる。舞台袖にのろのろと向かいながら、緊張で足の先まで痺れていた。

 まだどうなるかわからない。お父さんは帰っちゃったし、結局ダメかもしれない。きっと長い長い話し合いになる。
 それでも、ここが第一歩だと思った。

 ずっと握り合っている手を動かして、そっと親指の腹で悠樹の指先をなでる。悠樹の目が少し細められて、ぐいっと肩を引かれた。汗で濡れた顔が近づく。

 夏帆は願いをこめて目を閉じた。スタッフの忙しなく走っていく足音。次の出番のダンサーたちが気合のかけ声を掛け合っている。
 悠樹の唇と唇が重なる。ステージからは、また新しい音楽が流れ始めた。
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