結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 言葉の意味がわからず、悠樹を見返す。夜の色をしてる悠樹の目が、夏帆を捕らえるように見つめる。

「俺と結婚するの恐い?」

 だれもいない教室のなかで、言葉が静かに漂う。
 黙って、少し俯いて、

「――――」
 あっとおもったときには涙がこぼれていた。机の上で、ぎゅ、と拳を握る。整えた爪が掌に食いこむ。

「なんで」

 なんでこのタイミングで、こんなこと聞いてくるんだろう。

 俯く顎が震える。涙、冷たい。今日はいっぱい泣いた。でもそのどれよりも、今の涙がいちばん冷たくて、心まで冷やしていく。

「こわいよ。こわいに決まってるじゃん」
 知らない街で二人で暮らしていく。

 会社も辞めてるから、いちから仕事を探さないといけない。すぐに決まるかなんてわからない。ハローワークだってどこにあるかわかんないし、お母さんの言ったとおり、スーパーの場所だってわかんない。
 知らない場所で、別々の環境で暮らしてたひとと生きていく。恐くないわけない。

 泣きやめ、とおもっても、涙は自分とは別の意志で生きてる生き物みたいに後から後から落ちていく。うぅぅ、と唸る声。自分じゃないみたい。こんなところ見せたくなかったのに。私は十歳も年上なのに。

 お父さん、お母さん、ミドリ。
 大切な人たちの顔を思い浮かべると、離れることがまだ信じられなかった。最後だってわかってるのに、わかってない。離れる。自分の意志で。
 そうするためにずっとがんばってきたのに、こんなにもさみしくて、かなしい。

「やだよ。みんなと離れたくない」

 結婚前夜に言う台詞じゃない。わかっていても、止められなかった。桜みたいに白かった心が真っ赤に塗りつぶされていく。
 私はなにをしてるんだろう。なにがしたかったんだろう?

 ふわり。あたたかくて固いものに抱きしめられた。

「夏帆」

 悠樹にすっぽりと抱きしめられていた。耳元でささやく声。

「大丈夫だから」

 頬に流れる涙の筋を、細い指が消していく。迷子の子どもを見るような穏やかな顔。

 ひどいこと言っちゃった。まだきちんと動かない頭でぼうっと思う。謝りたくて、でもなんて言ったらいいかわからなくて、そもそもなんでこんなことになったんだっけ、と考えると、また目に涙が溜まっていく。
「……なんで、あんなこと聞いたの?」

 幸せになりなさい。これは義務よ、あんたたちの。

 お母さんの言葉。幸せになろうって決めたのに。

 幸せってなんだっけ? 急にわからなくなる。
 こわい。恐いよ。

 悠樹が片方の手で頭を撫でながら、
「うん、ごめん」
 やっぱり穏やかに返す。夏帆の両肩をつかんだまま、目を合わせる。悠樹の目の中で、途方に暮れた顔をしてる自分が映っていて、なんだかずいぶん幼く見えた。
「俺、ちゃんと聞いときたかったんだ。夏帆の気もち」
 黙って悠樹を見返す。熱をもった瞼が熱い。彼がなにを言おうとしてるのかわからない。
「前一度しくじってるから」
 まえ? 
 おうむ返しに尋ねると、悠樹は苦く笑って頷いた。

「大阪行くって決めたとき、夏帆のこと考えてなかった。だからあんなことになって、すげぇ後悔した」
 一度出た別れ話のことを言ってるんだ、とわかった。心の奥がざわりと波立つ。思い出すとまだ少しつらい。

「あのとき、ミドリさんが言ってくれなかったら、夏帆とこうしていられなかったと思う。ミドリさんには感謝してんだ。でも……ほんとは」
 悠樹の眉間にシワが寄る。
「夏帆のことは、俺が一番わかってたい」
「……悠樹」

 波立っていた心に、あたたかなものが流れ込む。悠樹がゆっくりと顔を近づける。キスできそうなくらいの近さ。指先が絡まる。
「夏帆は溜めこむから。俺が頼りないからなんだろうけどさ、そんなのやだよ。なんでも話してよ」
 ね、と悠樹が笑うから、また涙が溢れる。もう明日ぜったいお岩さんだ、と思いながら絡める指先に力をこめた。
「俺も不安だよ。才能とか天才とか、そんなの全然あいまいじゃん。なんの保証もないだろ。夏帆のこと巻き込んで、これで失敗したらどうしようって思う。だから」
 悠樹も指先を強く握る。痛いくらいに。
「ほんの少しでもいいから、練習する。踊り続けるよ」
 そうすることでしか、自分に勝てないから。

 そう言って笑う悠樹は、もう男の人だった。一年前、泣きながらプロポーズしてきた悠樹とは別人みたいだ。なにも言えずに、悠樹を見返す。

「夏帆。ここが俺のいた世界」
 悠樹はそう言って、教室を見渡した。
「なんかさ、チャペル入ったとき、教室と似てるなっておもったんだ」
 改めて教室を見る。机も椅子も、静かに並んでる。壁の時計が音をたてて進んでいく。
「そうかな」
「そうだよ、ほら、なんかあれとか」
 そう言って教壇を指す。教壇の正面の列が空いていて、その左右に机が並んでいる。言われてみれば、ヴァージンロードのように見えなくもない。
「だからってわけじゃないけどさ」
 そう言って、ポケットに手を入れるとなにかを取り出した。
「はい、あげる」
 掌に渡されたそれは、さっきの黒いボタンだった。

 問うように悠樹を見上げると、照れ臭そうに笑った。
「やっぱ、夏帆に持っててほしいから。第二ボタンは、好きな人にあげるんだろ」
「――悠樹」
 悠樹と毎日一緒だったボタン。親指でそっと撫でる。
「それ指輪じゃないし、ここチャペルじゃないんだけどさ」
 ボタンを握る手に、悠樹が手を重ねる。
「誓うよ」

 深い黒い目。漆黒の髪が、音もなく揺れる。

「俺の一生かけて、幸せにする」

 ぽた、と涙が落ちた。
 今日一日おきたことが頭の中を巡っていく。お母さんのビーフシチュー。日本酒を抱えて眠るお父さん。細い目で笑うお義母さん。怒鳴るお義父さんの言葉の根っこに、いつも悠樹への愛があると知っている。

 大丈夫だ。

 あたたかな確信に満ちていく。
 私たちは幸せになれる。
 だって、もうこんなに幸せなんだから。

 まちがってない。私がえらんだ幸せは、まちがってなかった。

「私の夢はね、悠樹のお嫁さんになることじゃないの」
 悠樹の頬にそっと手をあてる。パールが施された爪と目が合って、少し笑う。
「悠樹を幸せにすることなんだよ」

 悠樹の目が驚いたように見開かれて、直後に強く抱きしめられた。目を閉じる。悠樹の匂い。だけじゃなくて、うちの洗剤の匂いと混ざり合ってる。悪くない。変わっていくことは、悪くないんだ。

 だから、こわがらなくて大丈夫。私も悠樹も。

 背中に回っていた両腕が解かれて、悠樹が夏帆の髪を耳にかける。手首の匂いと熱に胸が疼く。
「それじゃ、誓いのキスを」
 悠樹がにやっと笑う。小生意気な顔。
 でも大好きだ。

 唇が重なる。この世にキスがあってよかった、とおもう。
 言葉ではこぼれ落ちていく伝えきれない想いが、唇を通して伝わっていく。この瞬間の、心と言葉の間でたゆたっていたいくつもの想いを伝えたくて、届けたくて、夏帆は悠樹の首に腕を回す。

 愛ってきっと、こういうこと。

 この夜を忘れない。そう強く思った。
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