愛を待つ桜

(1)最低の男

――3年後。

夏海は窓から桜を見つめていた。
あの日から、この時期は毎年胸が苦しくなる。大好きだった桜が、あの年を境に大嫌いになった。


「もろともに、哀れと思え山桜……か」

「人生の終焉の歌だね。若い娘が口ずさむ歌には相応しくないな」

「今はそんな心境で……あ、すみません! つい」

「すまないね。事務所がこんなことになって……本当に申し訳ない」

「高崎所長……そんな風におっしゃらないでください。今まで雇っていただけて、本当に助かりました。もうお歳なんですから、体が良くなったら、後はのんびり過ごしてくださいね」


夏海は努めて明るく答える。


3年前、彼女は一条物産を退職した。しばらくはバイトで繋ぎ、一昨年の秋、高崎の行政書士事務所に雇って貰ったのである。

高崎は70歳を越す高齢だ。つい先日も心臓発作で倒れ、それを機に事務所の閉鎖が決まった。
高崎にはひとり娘がいて鹿児島に嫁いでおり、退院後はそちらに行くらしい。

事務所には夏海のほかに、60を過ぎたパートの事務員がいる。彼女もこれを機に引退するとのこと。


夏海には行政書士としてひとり立ちできるほどの、お金も経験もない。彼女はすぐに、新しい仕事を探す必要があった。


「君の再就職先はあたってるから……。娘の大学の同級生が税理士でね。今、法律事務所の経理をやってるらしい。そこが司法事務を探してると聞いたから、君なら大丈夫だろう?」

「法律、事務所ですか……」


当然だが、弁護士がいるだろう。
まあこの東京には、全国2万を超える弁護士の半数近くがいるのだから、ピンポイントで会うことなど有り得ない。

夏海は胸に浮かんだひとつの名前を慌てて追い払う。


「娘の同級生のご主人が弁護士さんなんだ。如月さんと言ったかな。君の履歴書を廻しておいたから……2、3日中にも連絡があると思うよ」

「気を遣っていただいて、本当にありがとうございます。でも、私のことは大丈夫ですから……」


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