愛を待つ桜
人当たりの良い如月に、ソフトな口調でお願いされたら、夏海にはとてもノーとは言えない。
ホッとした表情で荷物を引き上げる三沢とは対照的に、夏海は重い足取りでフロア左奥の所長室に向かうのだった。

ひとつ目のドアを開けると6帖程度個室があった。所長室はその奥だ。
抱える仕事の量はかなり多いが、それほど大きな事務所ではない。弁護士には個室があるが、派遣をはじめ事務は全て正面の事務フロアで行っていた。

副所長である如月の部屋は、所長室とは事務フロアを挟んだ対面にあり、次の間は、秘書ではなく、経理で夫人の双葉が使っていた。

夏海は秘書のデスクに座り、いざ仕事に掛かろうとして唖然とした。
聡が一番仕事を抱えているのは知っている。だが、管理が全く追いついていない。デスクに散乱する書類といい、パソコンのデータといい、全てが中途半端なまま雑然としていた。
どうやら聡が次々に秘書を追い出すため、仕事は溜まる一方らしい。
後回しにしても無難なファイルは、数ヶ月前の案件が放置されたままである。


「さっさと済ませてくれ」


夏海を一瞥もせず、いかにも面白くなさそうな声で言う。


「ご冗談でしょう? これをさっさと済ませられる量かどうかおわかりにならないなら、弁護士の看板は下ろされたらいかがですか?」


売り言葉に買い言葉で、ついつい夏海も喧嘩腰になる。

しかし、それは聡も同じのようだ。


「自分の能力のなさは棚上げか?」

「私はいつ、秘書としてこちらに雇われたんでしょう?」

「クビにすることもできるんだぞ」

「されたらいかがです」


室内に火花が飛び散った。


「……なるほど、3年前は見事に猫を被っていたわけだ。それが君の本性か? 恐れ入ったな」


いい加減、夏海も限界を超えそうだ。


「また、それですか? あなたが、何をおっしゃりたいのかさっぱりわかりませんが……。私は3年前に、見事にひと回り年上の男性に騙されて、妊娠した挙げ句に捨てられました。結婚が決まっていたなんて知りもせず。――子供には可哀想なことをしました」


夏海は空を見つめ、ハッキリとした口調で言うのだった。


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