ビロードの口づけ
 思わず息を吸い込んだ途端、黒い獣はクルミに飛びかかってきた。

 手負いとは思えないほど俊敏な動きで、クルミの身体を押し倒し太い前足で口をふさいだ。
 声を出すなと言わんばかりに顔を近づけて、間近で低いうなり声を上げる。

 獣たちはクルミの住む領地に隣接する森を住み処としていた。
 滅多に姿を見せないが、稀に姿を現した時は女を襲ってその血肉を貪る。

 姿を見ることも稀な獣を、これほど間近で見ることはもっと稀だろう。

 けれどクルミは数日前にも、学校帰りに熊に似た獣に遭遇している。
 その時は咄嗟に獣よけの香水を鼻先に吹き付けて、運良く逃げることができた。

 今、香水は持っていないし、つけてもいない。
 広い庭に囲まれ警備員もいる屋敷の中で、獣に襲われるとは誰も思わない。

 たとえ香水を持っていたとしても、少しでも動けば、この敵意を露わにした獣に一瞬のうちに引き裂かれてしまうだろう。

 そう考えて、ふと気付いた。

 動こうが動くまいが、結果は同じだ。
 自分はもうじきこの真っ黒な獣に身体を引き裂かれ、食べられてしまう。
< 2 / 201 >

この作品をシェア

pagetop