愛罪



 ーー二日前。



 何かに背中を押されるよう家を飛びだしたけれど、僕は何も知らなかった。



 真依子の苗字も。

 住んでいる場所も。

 職場も年齢も。

 彼女の容姿と、フーガを愛でる気持ち、その華奢な体から伝わる体温しか――僕は知らなかった。



 当然、赴いた遊歩道で彼女を見つけることなど出来ず、家の中から担架で運びだされた母親が乗った救急車を、離れた場所から見送ることしか出来なかった。



 真依子は、何かを見たから姿を消したのか。

 母親が命を絶つ前に姿を消したのか。

 確かに、帰る前に一声かけてと頼んだわけではないし、一期一会よとのメッセージなのかもしれない。

 けれど僕が見てきた限り、母親に自殺するほどのやむを得ない理由はないはずだ。

 彼女は父親の葬儀の夜、久しぶりにふたりで夕飯を食べたとき、独り言のように零していた。



 ――『突然死んでしまったお父さんの分まで、私たちは頑張って生きましょう』と。



 僕は何も言わなかったけれど、母親の固く強い信念はちゃんと感じとっていた。

 志半ばの父親を事故で亡くした無念を誰より知る母親が、自ら命を絶つ理由など存在しないはずなのだ。



 真依子は何かを見たに違いない。

 僕はそう信じ、疑わなかった。


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