「竹の春、竹の秋」
前編 

1.

 ドアに身体を預けるようにして入ってきた長身の男に、見覚えがあった。髪型が違うし、ここ2,3年程見ていないからいまひとつ自信が持てないけれど、少なくとも背格好や雰囲気は似ている。以前は月に一度や二度、顔を合わせたことがあった。一度この店で大きな喧嘩があったときに彼が割って入って、それでよく覚えている。

 「ねえ、知ってる人?」
と、隣に掛けた男がグラスを持った手を握り締めて来た。薫はグラスを置く所作でそっと男の手を外して曖昧に頷いた。
 「で、どう書くの?」
 男は浮いた手をさりげなく自分のグラスに戻しながら、話の続きを振る。
 「薫風の、くん」
 薫は上の空で答えて、こんなことまで教える必要はなかった、とすぐに後悔した。

 特定の誰かがいる訳でもなく、時折こうして見知った店で呑み、気になる相手がいれば少し会話を重ねて、気に入ればホテルに行く。いわゆる【お仲間】では珍しいことでもなかった。特別な癖を持つお年頃の男だ。健全さの懐が少し深いだけだった。
 
 「あー、うん、似合う。薫風の、薫って感じがするよ。」
 「そ・・・かな。」
 「うん。ね、カオル、って呼んでもいい?」
 「え?あぁ、うん。いいよ。みんな、そう呼んでる。」

 下の名前を呼び捨てにさせてくれ、というのは、つまりそういうことだ。でも、すぐにベッドに誘わずに手順を踏もうとする男のやり方には少し好感が持てた。特定の誰か、というのが彼である必要はないが、そろそろそういう人を作るのもいいなあという気もしていた。この男はこの数ヶ月、懸命に薫を落とそうとしているのだ。

 「みんながそう呼んでいるんなら、カオル、くんって呼ぼうかなあ」
 「うん。いいよ。どっちだっていいよ。俺はそういうことには拘ってないから。」
 男は、はぐらかされている気持ちを持て余すように少し笑った。

 
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