結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
3月8日、午前12時
 晴れた空に、かすれた絵の具を引きのばしたような形の雲が浮かんでいる。
 前日差プラス七度。春のはじまりを告げる強い風が、竿竹に干したシーツをバタバタとなびかせた。後ろで一つにしばった髪の、むきだしになったうなじと耳に風が気もちいい。洗剤の匂いがふわりと鼻先をなでた。

 明日が今日みたいな天気だったらいいのに。
 
 洗った靴下や下着を詰め込んだ籠をもちながら、夏帆は空を見上げた。ここ一週間毎日眺めてるヤフーの天気予報によると、明日は午後から曇りみたいだ。
 パン、と父のシャツを伸ばす。呼応するように、隣の家から布団を叩く音が聞こえた。
 角にある保育園から園児たちの笑い声が甲高く響く。自動車が庭先を通る音。すぐ後ろの縁側のガラス戸は開いていて、部屋からテレビのCMが流れる。隣の家のブロック塀の上でひなたぼっこをしてる野良猫が、あくびをすると目を閉じた。
 ここから眺める隣の家。向かいの家の瓦屋根や植えている木々。庭の前に停めてある家の車。目の前の風景を、ひとつひとつなぞるように眺めていく。  
 この景色をずっと見てきた。
 じわ、と瞼の裏が柔らかく滲んだ。
「今日がお天気でよかったよね」
 だれにともなく呟く。そうだ。今日だって大事な日なのだ。大切な、一生に一度の――。

「夏帆(かほ)」

 振り返ると、縁側から母が呆れたように顔を出した。
「のんびりしてていいの。もう時間じゃない」
 言われて母の背中越しに居間の時計を見ると、盛り上がっていた涙と気持ちが引っこんだ。
「やっば! もう終わっちゃうよ」
 言いながら突っかけサンダルを脱ぎ捨てる。片方が縁側の下まで転がっていったけれど、見ないフリをする。
「ごめん、あとやっといて!」
 言いながら髪を結んでいたシュシュを取ると、茶色い髪が胸の下まで流れ落ちた。髪をなでつけながら居間を横切り玄関へと向かう。
「いってきます」
 扉が閉まる瞬間、母がなにかぼやいた。声は聞こえないけど、言いたいことはわかる。

 まったく、最後までバタバタなんだから。

 きっとそう言ったんだろう。
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