『ホットケーキ』シリーズ続編- 【 蜜 海 】
1.
 郷土料理を出すお気に入りの居酒屋は仕事の後にがっつり食べたい時も飲みながら何かをつまみたい時にもいい。小さなドアを出ると非常階段を兼ねた鉄製の階段の狭い踊り場だった。カンカンと金属の音を立てて数段降りて、湖山は続いてドアを出てきた大沢を振り仰いだ。大沢はゆっくりとドアを閉めながら湖山を見下ろしてニコリと微笑む。
 週末ならたまに呑むこともあるし、何かに託(かこつ)けて呑めば足元が覚束なくなることもあるが、量を沢山呑む方ではなかった。それでもほんの少し呑んだアルコールが湖山の頬をほんのりと染めている。
 カタン、カタンと、湖山の靴が鳴らす階段を後から踏みしめるように大沢は降りてくる。最後の二段目からポンとアスファルトに着地した湖山を心配げに見て、それから胸をなで下ろしたように階段を下り切ると大沢は彼を待っていた湖山の横に立った。薄青い春の終わりの夜はまだ深くない。ふわりと二人の間を吹きぬけた風は爽やかにあたたかだった。

 言葉少なに駅に向かう二人とも、寒くも無いのに上着のポケットに両手を突っ込んでいる。触れそうで触れない腕と肘が、測ったように同じ距離のまま並んで歩いて行った。JR線の階段は家路に急ぐ人と夜の街に繰り出す連中とが鬩(せめ)ぐ。湖山の先を昇っていく大沢の背中が自分を気遣っているのが分った。
 最近は多少少なくなったけれど、一緒に仕事をした日の帰り道や食事をともにする時間他愛も無い話に花を咲かせる。二人はもう十年以上もそうして来た。くだらない話にも真剣な話にも二人は自分たちらしく重ねてきた時間をまたこの先に何時間でも重ねて、それはまるで永遠に続くように思える程、これまでもこれからも変わらない景色に見えた。それなのに、たまにこんな風に二人のどちらともが何かを図るように黙り込む時間がある。
 時計で言えば、夜の始り。行動で言うなら、楽しく食べて呑んで家路に着く時間。
 そして決まってそんな二人の沈黙にそっと言葉をかけるのは大沢で、大沢の言葉に少なに答えてまた黙り込むのは湖山だった。

 「明日は久しぶりの休み。」
 「ん。」
 「2週間ぶりですよ?」
 「そうか…お疲れさま」
 「いくら俺が若いと言ってもネエ?」
 二人は小さく笑って、また車窓を見る。

 窓の外を流れるビルの窓の灯りを見送っていた二人の目が窓越しに合った。大沢はこんなときにいつもそういう顔をする。眉がほんの少し寄って、口元だけを綻ばす。それから、急におかしな顔を作って湖山を笑わせた。混みあった電車の中でぷっと吹き出した湖山に大沢はしっ!と人差指を立ててその唇に押し当てた。その手は直ぐに離れてしまったのだけれど、湖山は気恥ずかしさに俯いた。多分耳まで赤い。電車の周囲の人たちがオカシがらなければいいのだけれど。

 最寄駅に着く。
 「じゃ、ま…」
 『また』と言おうとした大沢を見上げた。湖山の手は大沢のシャツを知らずに掴んでいた。大沢は降りる人たちと一緒になって、湖山の最寄り駅で降りる。電車を降りるときには流石に手を離したけれど、大沢は佇む湖山を見守るように静かにホームに立ち、電車に乗らなかった。ゴーッとスピードを上げた電車がホームから離れていった時、湖山は泣きたい気持ちがして俯いた顔をますます伏せるように背中を丸めた。
 大沢は何も言わなかった。そして、湖山を促すようにしてホームを歩いて行った。
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