HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
#05 私、カノジョ失格ですか。(side舞)
 人間の目には限度がある。

 目の悪い私ですら、視力を矯正すれば世界の全てが見えると思っていたが、それは全くの思い上がりで、人間の目に映るものはごく限られた光彩の情報でしかない。

 なんて言いながらも、実は人間の目のしくみを正確に理解しているわけではなくて、単に清水くんの話の受け売りだったりする。

 何気なく始まる清水くんの話はいつも面白い。話題は様々で、たぶんそのとき心に浮かんだことを思いつくままに喋っているのだと思うが、彼の守備範囲の広さには本当に驚かされる。

 しかし今まで読書が友達のような生活をしていた私にとって、人と会話するということは少し面倒で億劫だったのに、最近この何気ない会話が楽しくて変な気分だった。

 だって本は、いつどこで開いても同じことしか語りかけてこないけれども、清水くんとの会話は、そのときその場所でしか起こりえない、いわばライブなわけで、しかもそれは彼と私の限定ライブなわけだ。

 清水くんと私にはほとんど共通点がないと思うのだけど、二人で話をしているとなぜか心地よい。だからつい私はもっと彼と話をしたいと思ってしまう。そう思う自分がやはり変だと思う。

 変だと思うけどやめられない。

 これでもし、急に清水くんと別れるようなことになったら、私はどうなってしまうのか。いや、どうにもならないだろうけど、また一人で本を読むだけの生活に戻ることなどできるのだろうか、と不安になるのだ。

 読書は楽しい。でも読書をしているだけだと、たとえ百冊、いや千冊読もうが、どこまで行っても一人だ。

「ねぇ、どうしてここはこうなるの?」

 と聞いても誰も答えてはくれないだろう。

 ――誰かと付き合うってこういうことか。

 そんな重い実感を噛み締めながら、私は今日も夏期講習へと出かけた。





 講習日程も残り少なくなってきた。始まる前は一週間の講習なんて長いな、と思っていたけど、講義内容に満足しているせいか、今は終わってしまうのが惜しい気がしている。

 今日は土曜日。講習は日曜日で終わる。

 いつものように電車で清水くんと一緒にS市までやって来たのだが、私の心の中はいつもとは少し違ってあたふたしていた。

 さすがに清水くんは鋭い。電車を降りて駅の構内歩いていると、隣から「それで?」と唐突に問われた。

「さっきからそわそわして落ち着きないけど、どうした?」

 私は清水くんの顔を見上げた。歩くスピードが落ちる。

「あの、今日は土曜日で」

「うん」

「講習が終わる頃、母が迎えに来るって」

「ああ、了解」

 なんだそんなことか、という表情で清水くんは前を向こうとした。私は思わず彼の腕を引っ張る。

「それで、伯母の家に行って泊まることに……」

「え!?」

 私の声は情けないくらいか細くなり、逆に清水くんの声は周囲の視線を集めるくらい大きかった。

 ――行きたいって言ったわけじゃないんだよ。私はやめておこうって言ったんだよ!

 清水くんの顔が急に強張るのを見て、私は心の中で懸命に弁明する。

 そもそも伯母の家は父方の繋がりだ。私の母も伯母も高橋家からすると嫁になるわけで、仲が悪いわけではないが特筆するほど親密ではない。それに車で一時間半くらいの距離だから、今まで遊びに行っても泊まるようなことはなかったのだ。

 それがどういうわけか今回に限って「泊まる」という話になったらしい。まだ高校生の私には母の決めたことを完全に拒否できる権限はない。

 清水くんはしばらく私の顔を見ていたが、急に視線を外すとため息をついた。

「お母さんと一緒なんだよね?」

「勿論!」

 私は勢いよく答える。

「でも嫌だな」

 清水くんの心境がはっきりと伝わってくる一言だった。これで講習初日に諒一兄ちゃんが現れなかったら清水くんにこんな想いをさせずに済んだのに、と思う。

「あの諒一ってヤツもいるんでしょ?」

「たぶん。今、大学も夏休みだし」

「そういえば、あの人、どこの大学?」

「確か……あれ、どこだっけ?」

 私たちは改札をくぐり、駅を出て予備校へと近づいていた。

 この話題になってからずっと不機嫌だった清水くんがクスッと笑う。

「舞も忘れちゃうような大学?」

「いや、大学の名前とかあまり興味なくて。N大だったかなぁ」

 そう言った途端、清水くんは「ふーん」とわざとらしい相槌を打った。意外だと言いたげな顔をしている。

 N大は私が受験したい大学より少しランクが高いはずだ。でも疎い私は上位校の偏差値などいちいち覚えてはいない。

 ついでによく考えてみると、私は清水くんが志望する大学も知らないのだ。

 ――勝手に自分と同じ大学かと思い込んでいたけど、清水くんのレベルだったらもっと上……だよね。

 そう思った途端、私の胸の中にはナイフで抉ったような鋭い痛みが走る。

 しかも今更「志望大学は?」なんて聞きにくい。だけど彼女なのにそんな大事なことも知らないのは変じゃないか?

「まぁ、気をつけて」

 清水くんは諦めたようにそう言うと、私の背中をポンと叩いた。

 でも時間が止まったかのように私の頭の中はぼんやりしていた。じっと清水くんの顔を見てみるが、彼はただ不思議そうな顔をしているだけだった。

「ん? どうかした?」

「……いや、気をつけます。……って何を!?」

「『何を!?』じゃないだろ。諒一だよ、諒一!」

「ああ」

 一応、納得したように頷いたが、何を気をつけろというのだろう。私はほんの少し首を傾けた。

「何を気をつけなきゃいけないのか、よくわかんないけど」

「舞、それ本気で言ってる?」

 予備校の手前まで来て、清水くんは立ち止まった。私も仕方なく足を止めた。

「だって諒一兄ちゃんは従兄だし、私は清水くんと付き合っていて、そのことは諒一兄ちゃんも知ってるんだし」

「だから?」

 いかにも苛立たしいという口調だ。背中につめたい汗が垂れる。

「あの、何をそんなに心配……」

「心配するなっていうほうがおかしいよ」

 清水くんはきっぱりと言い切って私を一瞥すると、その場に固まっている私を振り切るように予備校の玄関前の階段を駆け上がっていった。

 ――怒らせちゃった……。

 何となくこんなことになるような気がして、母にやめようと懇願したのだが、結局全て最悪な方向に進んでいる。つくづく私は無力だと思う。

 ――でも心配するようなことなんか起こるわけないよ。

 万が一、諒一兄ちゃんに清水くんが心配するような下心があったとしても、母も一緒に伯母の家にいる限り、絶対大丈夫だと断言してもいいと思うのだが。

 何か釈然としない気分のまま、予備校の階段を一段ずつ踏みしめながら上がり、数学の授業を受けるためにとぼとぼと教室へ向かった。

< 14 / 21 >

この作品をシェア

pagetop