HAPPY CLOVER 4-学園祭に恋して-
#06 私にとって本当につらくて耐えられないことは(side舞)
 図書室は私のオアシスだ。

 本がぎっしりと詰まった本棚に囲まれて、その本の背表紙を眺めているだけでも至福を感じるけれども、その中から「これは」と思う本に出会った瞬間、私の心はドキドキわくわくと躍りだす。

 そして本を開いて、冒頭の数行を読む。ここでもし期待通りか、それ以上の文章であれば、座るところを探して本の世界に没頭する。もちろん、そうでないときはそっと本棚に戻す。またいつか再会する日が来るといいな、と思いながら。

 この日の昼休みも、すてきな物語との新たな出会いを夢見ながら、私は本棚と本棚の間をさまよっていた。別に、教室で腹の立つ出来事があったから逃避してきたわけではない。本が読みたくて図書室へやってきたのだ。

 そしてぶらぶらしながら、私のお目当てである日本文学と分類された場所へたどり着いた。

「え?」

 私は小さく声を上げた。

 というのも、私が入り浸っているこの場所には、普段人影がまったくないのだ。

 それなのに今日は先客がいる。私の声でその人がこちらを向いた。

「あら、高橋さん」

 目をぱちくりとさせた私に、相手は柔らかく微笑んだ。なんと、先客は綾香先生だった。

 私はまず先生の手にした本を見る。どうやら大正から昭和にかけて活躍した作家の全集のようだ。名前は知っているが「代表作は?」と聞かれると困ってしまう作家なので、戸惑いながら綾香先生の顔を見つめた。

「昼休みも読書なんて真面目だね」

「いえ、ちょっと気分転換に……」

「あ、そうなんだ。図書室って落ち着くよね。私も図書館とか本屋さんが大好きで、行くと帰りたくなくなっちゃうの」

 そう言って綾香先生はにっこりと笑った。その笑顔がまぶしくて、私はついつい伏し目がちになってしまう。

 ここですっと立ち去ることもできたのだけど、正直なところ、綾香先生が読んでいる本に興味があった。好奇心が勝ち、私はおそるおそる先生に話しかけた。

「あの、先生の読んでいる本って……?」

「ああ、これね」

 綾香先生はポンと本を閉じ、私に表紙を見せる。

「前から気になっていた作家なんだ」

「はぁ。面白いですか?」

「うーん。ひとことで言えば難解」

 かわいらしい顔が険しい表情になる。

 こうして見ると、真面目な表情の綾香先生は本物の美人だった。顔のパーツそれぞれの美しさは言うまでもないが、どれかひとつが主張しすぎることなく、互いを引き立てあっている。

「難解……?」

「うん。書いてある文字は読めるけど、内容が頭に入ってこない」

「それは難解ですね」

「だね。あーもうやめた。やっぱり私には合わないや」

 綾香先生は恥ずかしそうにしながら急いで本を棚に戻した。私は、あれ? と思う。

「気になっていた作家なのに、いいんですか?」

 そう訊ねると、先生は困ったような顔で笑った。

「あー、いいのいいの。気になっていたっていうのも、今親しくしている人が研究している作家というだけで、それほど興味があるわけじゃないんだ」

「親しく……というと、彼氏さんですか?」

 言ってから自分でもびっくりした。綾香先生のプライベートを探るような質問を、気軽に口にする私はずいぶん図々しい人間だ。

 でも先生は少しも嫌そうな表情をせずに、ふふっと笑う。

「どうかな。そうなったらいいかもね」

「あ、えっと……ごめんなさい。余計なことを……」

「ううん。それより高橋さん、その後どう?」

 綾香先生は急に背中を丸くして、ひそひそ声で問いかけてきた。

 私は思わず身を引いてしまう。

「どうって……?」

「だから、ほら、……アレは来た?」

「ああ。まだ、だと思います」

「え? 『だと思います』って、他人事みたいに言うけど……」

 綾香先生の目つきが厳しいものに変化したので、私は焦った。

「だ、だって、私のことじゃないですし」

「……え?」

 ――えっ? もしかして、先生、なにかを誤解なさっている……?

 頭を小刻みに横に振って、力いっぱい否定する。

「ちがっ、違いますよ! 本当に私じゃないんです!」

「そうなのー!?」

 大きな掠れ声で嘆いたあと、綾香先生はよろよろしながら脱力した身体を本棚に預けた。

「なんだー! 私、てっきり高橋さんだと思ってた」

 どうして先生がそんなふうに思い込んでしまったのか、まったくわからない。

 そりゃ私もパニック状態で相談しに行き、綾香先生を目の前にしてものすごく緊張していたから、誤解を与える要素があったことは否定できないのだけど。

 綾香先生は「ふぅ」と大きなため息をついて、背中をピンと伸ばした。

「勝手に誤解しててごめんなさい。でもまだ安心するのは早いのね」

「そうですね……」

 私も小さくため息をつく。

 自分のことで頭に血がのぼっていたから、すっかり忘れていたけど、高梨さんの問題はまだ終わっていない。
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