モルフェウスの誘惑 ※SS追加しました。
街はクリスマスシーズンを迎えようとしていた

「神村さんなんて?」

事務所でエアメールを読んでいた美雨に美登が声をかけた

「あっ、はい。今はパリにいるそうです。シャトレにある調理器具の店で面白いものを見つけたって書いてます」

手紙と一緒に入っていた写真には調理器具の店員と親しげに写る神村の姿があった

「相変わらず…何て言うか…元気そうだな」

「はい…そう、ですね…」

写真には美人店員と肩を組み、カラフルなボウルを頭に被り、何かのキャラクターがついたお玉の様なものを手に持ち満面の笑顔で神村が写っていた

「ところで、美雨ちゃん、例のあの件どうなった?」

美登が言うあの件とは雑貨屋の襲撃事件の事だった

「あっ、はい…結局、特に進展もなくて…岡崎さんも時々、変わったことはないかと聞いてくださってるんですけど…」

「岡崎?ああ、刑事さんね。そっかぁ…兎に角、油断は禁物だよ。何か心配事があるときは遠慮なく言ってよ。僕で良ければ相談にのるからさ」

「はい、ありがとうございます。助かります」

「あんたさ、一番気を付けなきゃいけないのは美登に対してじゃねーの」

いつの間にか、杜が事務所の入り口に立っていた

「杜っ、お前は人が親切心で言ってるのに、なんて事いうんだよ。美雨ちゃん、僕は心から君の事を心配して…だから、決して下心とか…いや、ちょっとはあるか?」

美雨は思わず笑った
相変わらず、杜はムスッとした顔のままだが、美雨は自分も交えてこうして普通に杜が話してくれるようになった事に喜びを感じていた

「美登、今日仕事あんの?ちょっと、確認したいところがあってさ、こいつ借りたいんだけど…」

杜はその事で事務所に来たのだった

「う~ん、そうだな。こっちの仕事は今日はもう大丈夫だけど…美雨ちゃんは?」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ、後でアトリエに来て」

と言うと、杜は行ってしまった






美雨がアトリエに向かうと杜は、また、窓の外を見ていた

「あの…いつも…」

そこまで、言いかけて言葉を飲んだ
杜が泣いていたからだ
いや、
厳密に言えば、泣いているように見えたからだ

「続き言えよ」

杜が言った

美雨は少し躊躇したが、思いきって続きの言葉を吐き出した

「いつも、何を見ているんですか?
どうして…なんで、そんなに、悲しい顔してるのかなって…」

美雨は言ったものの、即後悔していた
ほんの少しでも杜との距離が縮まったかと
思っていたので、また、簡単に溝が生じるのではないかと、一瞬で後悔していた

けれど、
帰ってきたのは
思いもよらない、答えだった
ただ、やはり、美雨は聞かなければ良かったと思った

何故なら
杜への質問に対しての答えが

「狂おしいほど、愛しい人の事を考えている」

だったから






正直、想像はしていた
その瞳は決して、自分を見てもらってなんかいないと、いうことを
ずっと、遠くの誰かの為にむけられているものだと…

そして、泣きたくなるほど
自分が傷ついていることを…







杜は美雨に近付くと、美雨の瞳から溢れる涙をそっと、手で脱ぐってやった

杜の華奢な指先が、頬にふれ
それだけで美雨は体が火照っていくのが
解った

なんて、はしたないのだろうと
自らを罵った

ただ、杜がいった次の言葉に美雨は
一瞬で涙が止まった

「あんたなら、俺を深い眠りから起こしてくれるかもしれない…」

杜はそう言うと、頬に伝っていた美雨の涙に口付けた

何度も何度も涙を吸いとられ
そして、微かに美雨の唇に
杜のそれは、重ねられた

ほんの一瞬だった
それも、ほんの僅か
触れるか触れないか…

けれど、美雨には充分だった
充分、
杜の暖かさが
伝わった

「悪い…今日はやっぱ、いいわ
また、改めてにするわ…」

杜はそう言うと、ほんの少しだけ、笑った
いや、笑ったのではないのかもしれない
ただ、美雨にはそう思えた
それが、美雨を突き動かした
言葉が自然に口から溢れた

「私…一ノ瀬さんの事が好きです
こんな事いっても、軽いやつだと信じて貰えないかもしれませんが…その…あの時…
一ノ瀬さんに抱いて貰ったとき…
私もそう思ったんです
あなたを深い眠りから起こすのは私じゃないかって…だけど、あんな事があったのに、直ぐに好きな人が出来るなんて…あまりにも自分が軽い人間のように思えて…
だけど、だけど、一ノ瀬さんへの想いは膨らむばかりで…」

そこまで、一気に言うと
言葉は遮られた
杜の唇によって
遮られた…

杜と美雨の唇は重なり
やがて、それは深いものへと変わり
美雨は頭が真っ白になりながらも
それを受け入れた

ゆっくりと
唇を離すと杜は

「あんた、イリスだな」

と、言った

「イ、リス?」

「ああ、イリス、虹の女神」

「虹の?…女神」

「俺があん時話したの覚えてる?
モルフェウスの話」

美雨は記憶を辿った
確かに、杜はあの時、神話の話をしていた

美雨には聞いてもイマイチ、ぴんと来ず
なんとなく、その名前が耳に残るだけだった

美雨のあからさまに、疑問を浮かべる顔を見て杜は

「気になるんだったら自分で調べな」

そう言うと、今度は確かに笑った

歯を見せるでもなく、微かに口角が
ほんの少し上がっただけだったが、
確かに杜は笑った

美雨は漸く、自分の気持ちを認めようと思った
自分は間違いなく、目の前にいる男を
愛しているのだと…

ただ、決して杜は自分の事を見ているわけではない。今の行為だって恐らく気まぐれなんだと
美雨は改めて思った

それでも、いいと美雨は思った

今、この瞬間だけでも、杜が自分を見てくれているなら、それでいいと思った

この時はただただ、
その気持ちに酔いしれていたかったのだ














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