ホットケーキ
第一章 『始まりの、一歩』
なんでこんなことになっちゃったんだろうなあ・・・。

ほっそりした指先。女の子みたいな手だとよく言われる。湖山(こやま)は、首筋を撫でていた手を止めるとがくんと頭を落とした。さっきから少しも進まない本のページ。栞をするのも忘れて忌々しそうにパタンと本を閉じると投げるみたいにして鞄に放りこみ、飲みかけの水を飲み干すとソファに放りだしたパーカーを掴んで部屋を出て行った。


湖山はけして仕事に遅刻することはない。高校を出て専門学校を出て今の事務所に就職して、カメラマンという仕事は時間的に不規則だけれど、いなければいけない時間の30分前には必ず姿を見せた。アシスタント時代からそうだったし、いまや事務所の看板カメラマンの一人と言われるカメラマンになってからもそうだ。

この冬に37歳になったけれど彼は十も若く見えた。背があまり高くなく、華奢で、細い首がまるで少年のようだった。意識している訳ではないけれど丸首のシャツを好んで着るせいかその細い首は彼のチャームポイントのようによく目立った。仕事柄派手そうに見えるけれど自分ではそうは思わない。ごく普通に、地道に「仕事」をしているだけの男だ。

あの日も打合せの時間に十分間に合うように家を出て新宿駅に着いた時に電話が鳴った。事務所からの電話で打合せが急遽変更になったという。夜の仕事までぽっかり空いた時間をどうしようか。こんな時いつもなら本屋へ行くのだが、その日は熱帯魚の餌を切らしたことを急に思い出して、駅からつながったデパートのアクアコーナーへと向かった。

デパートの屋上に隣接したアクアコーナーで熱帯魚の餌を買うと、春がそう遠くない風が彼を誘った。いつもなら足を向けることなんかないデパートの屋上。そうだ、あの瞬間、暗いアクアコーナーから柔らかい光の溢れる屋上へと踏み入れたあの時の一歩だ。

こんなことに、なっちゃったんだろうなぁ・・・

と湖山はもう一度思った。

そういえばあの時の打合せはこの撮影の打合せだったのだ。最近一日に何度も何度も繰り返す記憶の再生。擦り切れてしまわないだろうか、と不安になるくらいに。でも現場に入った瞬間から彼はもうそのことを思い出すことはなかった。行程表を睨みながらもくもくと写真を撮り続ける。湖山がカメラマンになってから三人目の今のアシスタントは、淡々と仕事をする彼の傍で若者らしい楽しい気の使い方をするいい子だった。きっといいカメラマンになる。自分がアシスタントをやっていた時はもっと余裕がなかったなあと思う。

予定よりもほんの少し遅くなったけれど、大幅には遅れなかった。こういう時間の読み方がうまいところも湖山が売れるカメラマンである理由のひとつかもしれない。機材を一つ一つ丁寧にしまいながらアシスタントの様子を伺うように声を掛けた。

「ねー、大沢くんさぁ、焼肉、食いたくない?」

「おぉー、イイっすねえ」

男兄弟で育ったせいなのか、付き合っている子がいる時でも、男友達や仕事仲間とご飯を食べる方が好きだ。もちろん女の子とご飯を食べるのも楽しい。でも、それよりも男友達と女の子の話やら仕事の話やらバカ話をして食べて飲んで、じゃーなー!と手を振ると、今日も一日頑張れた、俺、仕事頑張った、と自分を褒めてやりたくなる。女の子が相手だとなぜなのかあまりそう手放しになれなかった。もう37歳なのにな。こんなんだから結婚できねーんだよな!ショボン。焼肉食いたさに手が早くなったアシスタントの手元を見つめながら自分にひとつダメ出しをした。
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