くろこげのホットケーキ
7. 「タクミくん?」 と、聞きなれない声・・・

7.
「タクミくん?」

と、聞きなれない声に呼ばれた。平日の午前中、有給をとった彼女と結婚式の打ち合わせに出かけたホテルのロビーだった。細身の濃いグレーのスーツを着て黒いビジネスバッグを提げている。黒い縁のメガネで一瞬分からなかったけれど、あの夜の、男だった。「カオル」と名乗ったはずだ。

カオルはにっこりと微笑んで、彼女に挨拶をする。

「初めまして、杉崎 薫です。デートですか?いいなぁ。」

友人然として巧みに自分の存在を位置づけていく。

「結婚式の打ち合わせに・・・」

と答えた彼女に動揺してしまったのは俺だ。薫は微笑を重ねるようにして

「そっかぁ、もう直ぐなんですねえ。こんな可愛い奥さんを貰うんだ、タクミくん、羨ましいよなあ。ところで久しぶりだね。最近どうなの?」

と俺を振り向いた。

「どうって・・・」

何て答えたらいいのか分からないでいると、その日夕方に友達と約束があった彼女がここから直接待ち合わせ場所に向かうから、と言う。思いがけず置き去りにされてしまった。薫が手を振って彼女の背中を見送っている。

「お茶でも、どう?」

と薫が言う。昼間に見てもやはりどこか湖山さんに似ていた。湖山さんにスーツを着せて、物腰を柔らかくして・・・。メガネの奥の瞳は、確かにあの夜魅惑的にに光った瞳だ。俺が一瞬考えたことに彼は気付いたみたいに笑った。彼の笑顔はいつも功を奏するのだろう。確かに魅力的な男だった。

厚い絨毯を踏みしめてホテルの喫茶室に向かう。低い階段を2,3段上がって喫茶室を見回す彼は物慣れた様子で喫茶室のウェイターと一言二言話した後俺を振り向いて「禁煙でいいよね?」と訊く。それは殆ど同意を求めているというよりも確認という感じで、「いいよ」と俺が言うか言わないかのうちにウェイターにそれでいい、と言っていた。

深いソファーに腰を下ろして、薫が口火を切った。

「なるほど。結婚するんだ」

メニューを選ぶのに忙しい振りをして俺は答えない。答える義理はない、と思う。そしてこんな時に思い出したくもないのに、メニューに「マンデリン」という文字を見て、湖山さんがこういう高級な喫茶店に行くとその珈琲を頼む事を思い出した。どこの喫茶店だったか、何度目かに湖山さんがマンデリンを頼んだとき『好きなんですか?』と訊くと、『よく分からないんだけど、あまりないものを注文しちゃうんだよね』と湖山さんが言っていたことも思い出す。その話をしたときの湖山さんがメニューを見ていた時の俯き加減や、左頬にあった蚊に刺された跡まで覚えている。

「コヤマさんはどうするの?」

無視できなくなって俺は薫を睨みつける。薫はそんなのなんでもないという顔をして俺を見つめている。ウェイターがメニューを聞きに来た。

「マンデリン」と、俺は答える。
薫が「じゃあ、僕もそれ」とウェイターを見上げた。ウェイターにメニューを渡す手は湖山さんよりもどちらかというと少年ぽい。

「あんなに、好きなのに。」

ウェイターが十分に立ち去ったのを見送りながら、薫が言う。

「・・・諦められる訳?」

深々とソファに体を預けた薫が真っ直ぐに俺を見ると、その姿がふと湖山さんと重なって、まるで湖山さんが「俺を諦めるのか?」と言っているように聞こえた。湖山さんはどうしてこんな風に俺の前を行ったり来たりするんだろう・・・!

「諦められる訳、ない。」

俺は湖山さんに言う。湖山さんに少し似ている薫のその姿に重なってくる湖山さんに向かって、いくらでも言う。

「諦められる訳ないでしょ?だけど、諦めなきゃ。」「俺は結婚するし」「これ以上続けると本当に何もかも失ってしまう。」「求めすぎてしまう、湖山さんのこと、」「もう終わりにしないと」

恨み言のようにいくらでも溢れてくる、湖山さんを諦めると決めた日から、胸の中で何度も繰り返した言葉たち。涙を栄養にして育った言葉たち。

湖山さん・・・湖山さん・・・・湖山さん・・・・!!!

薫は何も言わない。あの夜、俺を抱いてくれた腕、あの夜、俺が抱きしめた肩、あの夜、泣き叫ぶ俺を受け止めてくれたように、今もソファーに身を預けたまま俺の恨み言に耳を傾けて、俺の気が済むまでそうしていよう、と決めているみたいだった。

平日の昼間、壁一面の窓から入る光は、喫茶室の端の席に座る俺達のところまで届く。
自分が生まれてきたことに何度も疑問を投げつけて生きてきた二人が座る席まで。その光は、俺が訴え続ける言葉も、訴え続ける俺自身をも吸い込もうとしているみたいだった。

ウェイターがマンデリンを運んできた。
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