若と千代と通訳
送り狼になれない若といくじなし


「ただいまあ」

千代は疲れた体を引きずるようにして、立て付けのわるい扉の向こう側に滑り込ませた。

今日は近くの公民会館で敬老会の宴会があったらしく、無駄に元気なお年寄り達が二次会と称し「居酒屋ごんぶと」に殺到したのだ。飲むは飲むは、入れ歯を外してがぶがぶ焼酎や冷酒、ビールを流し込むさまは、よぼよぼのうわばみを彷彿とさせた。
そんな団体に加えて、大学の学生達が「古きよき時代の飲み屋の会」とわけのわからない飲み会を開催して、店の中は凄まじい状態になった。レトロなことを口走ってはいたが、話題はごんぶと両隣の高級クラブとフィリピンパブに終始していたので、二次会の場所は決定のようである。大学生にあの高級クラブの支払いができるとは思わなかったが、学生のひとりに「おねーさん、この後一緒行かない?」と誘われたのであながち見栄を張っていたわけでもないらしい。
まあ、お金というものはあるところにはるものなので、そこは突っ込まない。

(臣さんとあんまり話できなかったな……)

そんな老若男女の団体に次々に酒や料理を注文されて、話どころかまともに挨拶もできなかった。いや、話とか、まともな会話なんて一度もしたことはないのだが。
アイコンタクトすらできなかったのには、少々参ってしまった。
ただでさえ、臣は来店数が他の常連と比べて格段に少ない。仕事が忙しくてね、と、志摩が笑いながら教えてくれたが、一体なんの仕事をしてるのかすら知らない。
たまに、そんな自分が悲しくなる。
「オカエリー、チーヨ」
帰宅した千代を、カタコトの女が出迎えた。
居間の入り口にかけた百均のレースのれんを片方だけ上げながら、上はブラジャー、下はフリルたっぷりのパンツでスタイルのいい美女が立っている。色黒の肌は、健康的に焼けているというより、産まれ付きのナチュラルさ。フィリピン(直)系女子である。
「カレン。なんだ、早いね」
てっきりまだ帰っていないと思っていた。
そういえば、今日は玄関の鍵を開けていない。それにすら気付かないなんて、相当疲れてる。
「キョーは、アビゲールと一緒に早番ダッタヨ」
アビゲールもカレンも、ごんぶと隣のフィリピンパブで働く女の子だ。千代が過去キャバクラと間違えて突撃したあの店は、それなりに基準が厳しいらしい。カレンもアビゲールも、目鼻立ちくっきりとした美女で、千代より年下なのに随分と大人っぽく見える。
居間から再び玄関に戻り、狭い階段を上がる。
千代の平均体重に、昭和に建てられた古くて狭い民家が、ぎしぎしと悲鳴を上げた。
今日はよく鳴るな、と思ったら、カレンが後ろをついてきていた。
部屋に戻るらしい。手には寝酒用のチューハイ。
「アビゲールは?」
「こんびにー。ゴムなくなったって」
「……ああそ」
玄関と同じくらいたてつけの悪い襖を開ける。
六畳の千代の城。服や小物やら本やらCDやらが散らかってて、更に言えば妙にかび臭い。
「あいっかわらず、チーヨの部屋はきったないネ~」
カレンが語尾を上げて笑いながら千代の向かいの部屋に消えていった。
少しブームは過ぎたが、俗にいう汚部屋である。とはいっても、食べ物放置だとか不衛生な真似はしない。かび臭いのはこの建物が木造であり、更に言えば千代の部屋は南向き。ただし、唯一の窓が七階建てのビルに面した南向き。陽光なんてこの部屋では見たこともない。たまに太陽の傾きで入ってきても、日照時間が短すぎて泣けてくるほどだ。窓を開けても、鼻先にコンクリートの壁が見えるだけ。換気しても風が通らないので、なかなかかび臭さが抜けてくれない。
正直、もう慣れた。
夏場は隣のコンクリに蒸されて死にそうにはなるが、一日ほぼ翳っているお陰で、地獄の釜状態にもならない。カレンやアビゲールの部屋は大きな窓があって換気も充分なので、いつもフローラルな香りがしている。
まあ仕方ない。千代はこの立て付けの悪い戸ばかりの城で、一番の新参者だ。
千代は小さな空気洗浄機のスイッチを入れる。疲れた。風呂に入ろう。
襖を開け放しているので、向かいのカレンの部屋から人の話し声が洩れてきた。どうせコンビニにいるアビゲールにおつかいでもお願いしているのだろう。
そんなことを考えながら、着替えを用意していると、カレンの部屋の襖が開いた。
「え、ア、待って待って、チマさん。いま迎えやるから、ね?そんなこと言わないでよォ」
チマさん?だれそれ。
「ほんとだってばあ。ちゃんと迎え行くよ!大丈夫!すぐだから!ね、だから売るなんて言わないでよお。いくらもう一個あるからって、女の体に傷なんてつけたくないよぉ。それにもう売ってるようなものなんダヨー?」
売るってなに?内臓?こわ!
物騒な会話だ。いい、聞かなかったことにしよう。私は風呂に行く。
千代はカレンを無視して部屋を出た。
が。

――ガシッ。

「行くよ、いくいく、今から。ワタシのかわいいコーハイが?」
服を掴まれた感触に千代が振り返ると、カレンが美しいが壮絶な笑みを浮かべていた。
コーハイが、ゲボクに聞こえた。


(どうしてこんなことになった……)
千代は歩いていた。
深夜も過ぎた歩道を黙々と歩き、視認できる距離まで近付いたコンビニを目指す。
あたりは暗くはない。千代の城は、繁華街を少し抜けたところにある。つまり、少し抜けたところで、煌々と光り輝くネオンから逃れられるわけではない。
たまに家の前に泥酔したおっさんが寝ていたりゲロがこぼれていたり血痕が散っていたり、恐ろしいこともあるが、日本の平和を守る警察官の皆さんがこまめに巡回してくださっているので、人気のない住宅街より安全だったりする。
とはいえ、このあたりは近藤組という暴力団の管轄内で、昔から彼らが仕切って、うまく商売をさせているらしい。勿論、みかじめ料を取られるが、最近の振興組とは違い、カタギには手を出さず、マナーの悪い新参者をきっちり締めてくれるらしい。これはごんぶと大将、桂談。
数年前、近藤宇佐美が十代目組長を襲名してからも、その〝極道〟を貫いているらしい。
勿論、一般的にみていいことばかりではないのは確実だが、近藤組の庇護下のもと、なんのかんのこの繁華街は栄えていた。
とはいっても、一般市民である千代に、そんな組織と関わる機会などめったにない。知り合いにもそんな方いないし、たまに、昏い路地裏でそれっぽい皆様が怖い顔してどなたかを恐喝という名の教育を施していらっしゃるところは見たことくらいはある。

話が逸れた。
そんな千代が何故、深夜を過ぎてもなお人が活気付いている繁華街のコンビニを目指しているかというと――。
「千代嬢」
コンビニの逆行で顔は見えないが、聞き覚えのある声が千代を呼んだ。
千代に「嬢」なんてつけて呼ぶ人を、千代はひとりしか知らない。
「えっ、志摩さん?」
近付いてみれば、やはり麗しののロマンスグレー、志摩だった。
「こんな時間にどうしたんだい?いくらこのあたりが近藤組のシマだからって、こんな時間に出歩くのは関心しませんね」
一体近藤組のシマがどう関係しているのか知らないが、心配してくれているらしい。
それにしても、ごんぶと以外で志摩に会うのは珍しい。今日はごんぶとからも早々と出て行ったが、あのあと別の店にでも飲みに行っていたのだろうか。
(確かに、今日のごんぶとは飲みのシメにするにはうるさかったな)
怒涛の敬老会集団と大学生集団を思い出し、千代は忘れかけていた疲れをどっと思い出した。
「こんばんは、志摩さん。知人を迎えにきたんです。泥酔したままコンビニにでかけたらしくて、足腰立たないって」
つまりは、こういうわけである。
久々の早番でしこたま家呑みを楽しんだアビゲールが泥酔した状態でコンビニに向かい、着いたコンビニで酔いがまわりきり、足腰立たなくなってしまった、と。
ちらりと志摩の後ろを見ると、がーがー豪快ないびきをかいているアビゲールがあられもない姿で公衆電話に縋りつき、ぐうぐうと寝息を立てている。おねーさん、美しいおみ足が丸見えだよ。寒いよ。サブイボでてるよ。
「……ああ?カレンのヤツァ、後輩って、千代嬢のことかい」
千代がアビゲールに気を取られていると、志摩がかつてなく低い声で唸った。低すぎて正直なんて言ったかわからない。
「あ」
聞き返そうとしたが、新たに気を引くものが垣間見えて、千代は思わず声を上げた。
グレーのロングコートに、黒のスーツ。相変わらずの顔面凶器が、買ったばかりの煙草を開けながらコンビニから出てきた。
ひゅ、と吹いた北風に前髪を煽られて、少し眉間に寄った皺が殺人並みに怖い……いや、かっこいい。
臣さん。
不意打ちすぎて胸が詰まる。名前を呼びたかったが、胸のついでに喉も詰まって声が出なかった。
臣が咥えた煙草に火をつけながら、ふとこちらに視線をやる。
と、千代と目が合った瞬間、臣の動きが一瞬だけとまった。
ような気がした。
さして離れていない距離で、じじ、と火のついた煙草が唸る。
睨まれた。
(えっ)
こうして真正面から睨まれたのは初めてかもしれない。眉間の皺が更に深くなり、濃く太い眉がぎゅっと釣りあがる。通常でも睨まれているような錯覚を起こす鋭い眼光が、確かに、千代を睨みつけていた。
あまりの迫力に、寝言を言っているアビゲールのもとまで思わずあとずさる。
「どうしてこんな時間に外にいる、って言ってますよ、彼。――臣さん、目つきやばい。カレンが言ってた迎えって、千代嬢のことだったみたいですよ」
すかさず志摩がフォローを入れてくれたが、臣の殺人光線は対象を変えてアビゲールに向けられた。ねーさん、寝ててよかったね。
どうやら、彼らとカレン達は知り合いらしい。
公衆電話で眠ってしまったアビゲールを見かけた志摩と臣が、わざわざカレンに連絡を取ってくれたそうだ。
「たまーにね、彼女達の店に行くんですよ」
茶目っ気たっぷりにウィンクした志摩に、千代もつられて笑う。
笑ったはいいが、私用の電話番号まで教えあっている仲だというのか。
(なにそれ、まさか臣さんも?)
つまり、カレン達は臣の声を聞いたことがあるということだろうか。
(なにそれ、ずるい)
アビゲールの涎の垂れた唇を拭ってやりながら、千代は思わず憮然とした。
(いやいや、幼稚すぎるでしょ、わたし)
たかが居酒屋のアルバイトが、超絶面食い支配人の精査を通過して接客のプロとして頑張っている彼女たちとなにを張り合おうというのか。
「ご迷惑おかけしました。……カレンも待ってるんで、帰ります。またごんぶときてくださいね」
千代は自分より身長の高い、だがしかし体重は同じくらいの許しがいた事実を理由にアビゲールをよいしょと背負うと、よろよろしながら志摩と臣に頭を下げた。顔は見れなかった。見れるわきゃないじゃん。

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