美しい月
2
サイードの迎えを待たせないようにと、定時少し前に退社を許された美月は、とりあえず社ビルから出た。

『ミズクレハラ、お迎えに上がりました』

社ビル前に、タイミングよく黒塗りのリムジンが横付けされる。まさかの超高級車に戸惑うが、エスコートされて、開けられたドアから乗り込もうと背を屈めたところで、中から強引に腕を引かれた。

『待っていた』

何かに受け止められたかと思えば、上から声が降ってきた。

『っ、で…殿下!』

美月を受け止めたそれがサイードの腹だと知るや、慌てて体を起こそうとするが、力強く阻まれた。

『そう慌てるなミツキ…まずはブティックだ』
『ブ、ティック…?』
『五日分の着替えやディナー用のドレスも必要だろう?』
『自宅に帰ればありますので、まずは…』
『いや、俺が選ぶ。滞在中のお前の身の回りは全て、俺が決める』

ランチの際には【君】と言った響きだったそれが、今の美月には間違いなく【お前】と聞こえていた。しかも名前で呼ばれた。

『自宅に戻る必要は一切ない。俺が用意する…それが俺に付き合うと言う事だ。入り用な物はすぐに俺に言え、いいな?』

余りの豹変ぶりに、美月は呆然としていた。

『降りるぞ』

躯を起こすと、サイードは先にリムジンから降りた。後を追うと、すっと手が差し出された。指先から視線を動かし、出所を確認すれば…。

『手を取れ』
『ぁ、はい』

言われるがまま手を取れば、サイードは美月をリムジンからブティックへエスコートする。

『彼女に何着かドレスを見繕ってくれ』

頭布をした女性スタッフらは慇懃にサイードに礼をして、美月を奥のフィッティングルームに連れて行った。どうやら彼女のたちはサイードが来店するのを知らされていたようで、その為に頭布を着用していたらしい。

『サイード殿下、こちらは如何でしょう?』
『肌が白くいらっしゃいますので、こちらのお色もよろしいかと』

ドレスやミュールを試着した状態でサイードの前に連れ出され、更にいくつかのドレスを当てられる。

『今着ているもの、それから…その赤と黄色、淡い青もだ。あと純白のシルクの衣装を』
『畏まりました』
『暫くホテル暮らしをする。身の回りで必要な物一切も届けてくれ』

そう言い残し、試着したままブティックを出た。

『殿下っ、私のスーツがまだ…』
『全てホテルに届く。心配するな』

サイードの指示もなく、リムジンは緩やかに夜の街を進む。

『どちらへ…』
『ホテルだ。ディナーにはいい頃合いだ』


到着したホテルのエントランスには、支配人やスタッフが並んで立っているのが見える。まるで誰かを出迎えるかのように。

『お帰りなさいませ、サイード殿下』
『ご苦労』

美月をエスコートしたまま、当たり前のように前を通り過ぎる。彼らはサイードを待っていたのだろう。そんな事にも驚かされ、財布や携帯が入った鞄を手に取る隙もなかった。フロント横を奥へ進み、フロント前にあるエレベータとは違う、スタッフが付いている豪奢な造りのそれに乗り込む。
行き先階を押す必要もなく、勝手に上昇していく。軽い音と共に扉が開くと、コンシェルジュが常駐するロビースペースだ。コンシェルジュの出迎えを片手で制して、サイードは更に奥へと足を向けた。

そこはまた別世界。観音開きの扉の両サイドに、護衛らしき屈強なアラブ系の男たちが立っていた。その脇に立つ男はまた護衛たちとは様相が違う。

『おかえりなさいませ、サイード殿下』
『ミツキ、俺の侍従のカシムだ』

カシムと呼ばれた男は、優雅な仕草で慇懃に頭を下げた。

『お初にお目に掛かります、カシム=イブラーヒムと申します』
『ミツキ=クレハラです』
『カシム、ミツキの荷物が届いたら部屋へ入れておけ。俺とミツキはディナーだ』
『ダイニングにご用意がございます』

観音開きの扉の先のリビングは美月の自宅よりも広いだろう。その隣はダイニングで、そのテーブルには向かい合わせに二人分のカトラリーが整然と並んでいた。

『ミツキ、好き嫌いはあるか?』
『いえ、特には…』
『本日はシャーラムより空輸させた食材を使用してございます』

どこで調理したのか、給仕が二人の前に料理を運んでくる。目の前には美月には見慣れない品が並ぶ。カシムが椅子の後ろに立ち、座るように美月を促すと、サイードも向かいに着席した。

『勤務時間外で運転の必要がないなら飲めるんだったな?』

グラスにはシャンパンが注がれた。

『乾杯だ』

グラスを手にしたサイードに倣い、同じく手に取る。

『今宵の美しい月に』

軽くグラスを掲げ、そっと口元に近付けると、まずは甘い果実の香り。一口含むと、絶妙な甘味と酸味…青林檎だ。

「…おいしい」

ポツリと日本語が零れると、サイードが首を傾げて復唱した。

『美味しい、と言う意味です』

慌てて訳す。それを聞いたサイードは料理も勧めた。

『シャーラムの物はどうだ?』
『とても美味しかったです。特にこのデザート』

酸味あるカスタードのようなスープの上に、温かいパイ生地に生クリームとフルーツソースが飾られたものが浮かんでいる。始めはさっくりと、次第にしっとりするパイの食感の変化も楽しく、生クリームも溶け出してスープに更にまろやかさを加えていく。
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