美しい月
3
『ミツキ』

真正面に立たれ、椅子に座る美月に退路はない。サイードが衣擦れをさせながら動くと、香がより一層、鼻腔を満たす。

『ミツキ』

見下ろすサイードは、瞳の奥に焔を揺らめかす。クラクラと眩暈に似た感覚が美月を襲い、無意識に蟀谷を押さえて俯いた。

『酔ったのか?』
『ゎ、わかりません…さっきまではそんな…』

目線を合わせて覗き込むサイードが、頬を包んで顔を上げさせた。

『熱いな…少し横になるといい』

椅子から至極丁寧に抱き上げて、つい先程まで自分が横になっていたベッドに美月を横たえた。

『何か飲むか?』

力無く首を降る。ぼんやりと思考が霞む…酔った時の症状に似ていた。

『飲むと楽になる』
『いえ…』
『いいから飲め』

ベッドに乗り上げ、グラスを手にしたかと思えば、サイードが口に含み、美月に口移した。驚くより早く口腔に仄甘い液体が流し込まれた。

『んんっ…』

嚥下した後も唇は重ねられたままだ。隙を突いて舌を歯列から滑り込み、絡む。下から肩を押し上げようとする華奢な手をシーツに縫い止めて、ゆったりと貪れば、次第に抵抗はなくなっていく。

『ミツキ…?』
『…っ、な…に?』

定まらない思考の中、潤んで揺れる瞳でサイードを見上げる。

「あぁ…ミツキ、溶けてしまいそうだ…」

思わず口を付く母国語。思考が無いに等しい美月を前に、余裕たっぷりのはずのサイードが無意識のうちに飲まれていた。

「堪らないな…」

縫い止めた片手を解放して、その手で頬から首をなぞり、鎖骨の間を指先で辿る。

『…殿、下…』

谷間も指先で辿れば、ドレスの胸元が下がる。

「美しい…きめの細かさも艶も…」

そっと胸元にキスを落とす。唇で触れた肌の感触はもう箍を外そうとするだけだ。唇だけでは足りず、掌と舌で触れていく。肩を撫でながら肩紐を外し、胸元を下げれば下着効果のあるドレスの胸元は柔らかな膨らみを呈する。

『っ、いけませ……殿下っお、止め…』
『駄目だ』

腰下に腕を入れ、胸の下あたりに滞るドレスを一気に下げて、躯に乗り上げると、本格的な愛撫に取り掛かった。抵抗を忘れて喘がされ、いつしか重なる肌は互いに素のものだった。
サイードの肌は昼の砂漠の如く熱を帯び、灼熱の太陽に晒したような熱さを美月に齎す。それは熱さに留まらず、覚えがない程の快楽すら与えていた。
サイードの熱に内外を侵されながら、意識が薄れていく中、美月の記憶にはただサイードの香りだけが残った――。



「ミツキ…」

力尽きて事切れたように眠りついた美月の髪を撫でながら、サイードは何度も口付けを繰り返した。
抱いた女は幾人もいたが、ハレムにと考える程ではなかった。する事さえすればそれで後は用がない。子が出来れば女共々ハレムに入れただろうが、生まれた子のDNA鑑定の結果、サイードの種でない事ばかりだった。

「ミツキ…お前は必ず連れ行くぞ、我が国シャーラムへ」

催眠術でも掛けているかのように、何度も何度も…耳元に囁いて、口付けてやる。

「…俺の美しい月」

ふと主寝室の外に気配を感じた。

「カシム、入れ」
「はい、殿下」

美月を柔らかなブランケットに隠し、躯を起こす。

「ミツキは連れて行く…宮殿の用意を急がせろ」
「ハレムではないのですか?」
「アッシーラの俺の離宮の調度品や内装を急ぎ変えさせろ。あそこは月が美しく見える…ミツキと共に過ごす場所だ。名は……」

隣で眠る美月の髪を撫でながら思案する。

「…月離宮だ。デザインが決まったらすぐ見せろ、いいな?」
「畏まりました」
「英語が理解出来、信頼出来る者を配しておけ。ミツキはまだアラビア語は理解出来んからな」

ふと穏やかに笑うサイードを、カシムは無表情に見つめ、小さく礼をすると主寝室を出た。

「ミツキ…お前の為の宮殿が出来るぞ。俺と過ごす為の場所だ」

満足げに微笑んで、サイードは隣に滑り込んだ。

「早く…俺を愛せ」

引き寄せてそっと囁く。無意識下に擦り込むように、自身に眠りが訪れるまで、サイードは囁き続けた――。







 翌朝、目覚めた美月は自己嫌悪の塊だった。隣には自身と同じく全裸のサイード。
その褐色の体躯は初対面の時に垣間見た以上に、固い筋肉に覆われた上肢や胸板、腹筋に下肢…何もかもが美月の知る男とは違うのだ。

『…おはようミツキ、もう起きたのか』

上半身を起こしたサイードから、ごく自然な仕種で額に口付けが降ってきた。美月は驚いた。

『もう少しで朝食の支度が出来る。着替えは出掛ける前にしよう』

ゆったり髪を撫でられ、額のみならず、頬や瞼に鼻先、唇にも啄むような優しいそれが降り注ぐ。するとノックが聞こえ、外から声が掛かった。

「殿下、ご用意が出来ましてございます」
「わかった」

それは声だけで、入っては来ない。

『ミツキ、これに着替えるんだ。朝食を終えたらシャワーを浴びて出掛けよう』

躯を起こすのを支えられた。そこに差し出されたのはアラブ特有の民族衣装だった。手触りのいい、上質な絹製のものは、光の加減で控え目に煌めいて見える。戸惑っていると、着方を口頭で説明され、ベッド下にはサンダルがある事も教えられた。

『着替えたら出てくるんだ、いいな?』

サイードは長衣を被り着ると、美月にキスをして主寝室を出た。

「…どうして…」

震える指先で唇を押さえた。昨夜の王族然とした態度や、美月を抱いた獣のような瞳、祖国を思う横顔、そして先程の恋人に対するような甘い態度。滞在中は恋人ごっこに付き合えと言った。つまり美月はサイードのリゾートラバーのような扱いになるのだろう。

「そんな…」

そんな道理が通るわけがないのだ。美月もそんな扱いは御免だ。だからと言ってハレムだの妻だのと言われたいかと言えば、そんなわけもないのだが、躯を許してしまった。

「どうしたら…」

美月が困惑していると、またノックが聞こえた。

『ミツキ?着方がわからないのか?』
『っ、い…今…』
『どうした?』
『ぃ、今まだ着替えの途中なんです』

一瞬、ドアノブが下がりかけたが、着替え中との返事に納得したのか、元に戻った。

『わかった…急かしてすまない』

美月は慌てながらも言われた通りに、手にしていた衣装を広げた。折り畳まれた衣装の間には、美月のサイズの新品らしき下着一揃いもあり、誰が用意したのか気になるところだが、ありがたくそれを身につける。
ゆったりしているかと思えば、存外タイトな造りで、躯のラインは目立つように思えた。しかし確認したくとも、主寝室には姿見がない。余り待たせると、またサイードが催促に来るだろうと、意を決してドアの斜め前に立ち、ノブを降ろした。

「!?」

引いたドアが予想外に軽く、バランスを崩した美月は背後に倒れていく。その衝撃を覚悟した時だ。

『ミツキ!』

腕を引かれ、硬い何かに頬をぶつけた。

『大丈夫か!?』

狼狽した声と共に、きつく躯を包まれる。

『まさか…お前がドアのすぐ向こうにいるとは思わなかった』

深く息を吐き出したのはサイードだ。耳に響く心音は少し早い気がした。

『余りに遅いから、今度はノックせずに様子を確認しようと思った』

タイミングよくこちらから引き、向こうが押したのだ。

『着替えたんだな…』

肩を掴まれて、少し距離が取られる。足の先までしっかり確認した後、また引き寄せられた。

『よく似合っている』

そっと頤を掬われ、触れるだけのキス。
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