愛しい太陽
2
広い主寝室の中央には、天蓋付きのベッドが鎮座し、アズィールは陽菜のショールを奪い捨て、ワンピースの背にあるチャックを引き下ろす。

『っ、殿下っ』
『ヒナ』

呼ばれた事のないトーンで背後から耳元に囁かれる。普段穏やかなバリトンが、今は違う響きをしている。ワンピースが足元へ落ちると同時に、俯せで手荒くベッドに押さえ付けられた。
頭の中で警鐘が鳴り響く…忘れようと自棄になって塗り潰して来た過去がスライドショーのように流れ始めていた。

「ゃ…やだ…っ」
『抵抗しても無駄だ…逃がしはしない』
【抵抗しても無駄だ…逃がしはしない】

背後から押さえ付けられて、スカートをたくし上げられた。

「やめてっ、嫌!」
『君が望んだ事だ…助けは来ない、もう諦めるんだな』
【助けは来ない、もう諦めるんだな】

下着も無理矢理下ろされて、腹に腕が回り、腰が上がると、何かが足の間に押し付けられていた。

「いやぁぁぁぁぁ!」

突然の悲鳴に、アズィールが陽菜を抱き起こす。

『ヒナ?ヒナ!』

焦点の合わない瞳には涙が溢れ、恐怖を色濃くしている。小刻みに震える躯をきつく抱き締め、何度も何度も名前を呼んでやった。暫くそうしていると、陽菜の瞳がアズィールを映した。

『…殿、下……?』
『ヒナ…すまない…落ち着いたか?』
『っ、あ…』

収まりかけていた震えが戻ってきた。

『…もう手荒な真似はしない…安心してくれていい』

想像していたより力強い腕は、次第に陽菜の震えを消してくれる。

『も、申し訳ありませ…っ、私……』
『君は悪くない…私がトラウマに触れるような言動を…』
『っ』

【トラウマ】…陽菜がびくついた事で確信した。陽菜には行為に関わるトラウマがある。だがトラウマがあるにも関わらず、不特定多数と躯だけの関係を続ける理由が解せない。アズィールの知る限り、その行為が原因ならばそこからは遠ざかるはずだ。

『ヒナ…もう大丈夫だ…君が嫌がるような事はしないと誓う。震えが収まるまで…ずっとこうしていよう』

陽菜を抱き締める腕も胸も温かく、アズィールの纏う微かな香りで混乱していた意識や激しい動悸が凪いでいく。

『…ヒナ?』

ふわりと陽菜の躯から強張りが消え、完全にアズィールに預けて来た。名を呼びながら様子を窺うと、瞼を閉ざし、深く穏やかな呼吸を繰り返すだけだ。

「…落ち着いたか」

そうして自身も深く息を吐いた。陽菜に告げられた一言一言は、アズィールを激しく動揺させていた。天衣無縫…陽菜は第一印象を打ち消した後はまさにそれだと思っていた。今日、それに隠した片鱗を知るまでは。勤務中は隙のない優秀な秘書だ。明け透けな物言いをする事もあるが、出過ぎた真似をする事はない。
アリーがデパートのブランドショップにスーツを受け取りに行った先で、陽菜に少々強引な誘いをしなければ、陽菜は今頃ここにはいなかっただろう。もしかしたら陽菜の腕を酷く掴んだあの男と、ベッドの上で裸で過ごしていたかもしれない。

「…殿下」

ドアの向こうからアリーの声がした。

「ヒナ様は…」
「あぁ…もう大丈夫だ。ヒナは眠っている」

場凌ぎにベッドカバーで陽菜の下着姿を覆い隠してから、アリーに入室を許す。

「…殿下、空いている寝室を整えました。ミズミシマをそちらに…」
「いや…このまま抱いていてやりたい。それに眠っているとは言え、もう暫くすれば目覚めるはずだ」

執着しないアズィールが、出会って一週間にも満たない陽菜に執着しているのを察した。ハレムにいる女たちですら、一度抱いたきりでもいいならば…と、希望すればハレムに入れてやった。どんなに高貴な出の女であれ、アズィールは次期国王として安易には妻を選べない。

「…畏まりました。お食事の用意はいつでもお申し付け下さい」
「アリー」
「は」

退室しようとしたところに名を呼ばれた。

「…お前の機転に感謝している」
「光栄です」

今度こそ退室する。静かにドアを閉めると、脳内では数々の手順が反芻されていた。アズィールは陽菜を手放さないだろう。ならばまずハレムの手配はしておいて間違いない。

アリーはアズィールの一番の侍従ではあるが、アズィールに誠心誠意仕えているつもりはない。気持ちは現シャーラム国王に仕えているのだ。王太子は国を率いるに相応しい統率を持ってはいるが、人間としての彼を好きになれずにいる。アズィールのハレムの女たちの扱いは、相手が望んだとしても行きずり扱いに変わりない。

一度抱いた女を抱かないのだ。宛がわれたから抱いた。今後二度と抱く事はないが、それでも希望するならハレムに部屋を用意してやる。ハレムに入らなかった女には、手切れ金として莫大な金が支払われる。ハレムの女たちはハレムにいる限り、その生活が保障されている。ハレムを出た女にも恩情を掛けてはやる。だがそれだけだ。
情事も女と二人で一室に篭り、一時間と掛からずにアズィールだけが出て来たかと思えば、そのまま一人で湯浴み。それ以上、女に会う事はない。それに中の様子を窺う限り、前戯も愛撫もほぼない。事前に媚薬を混ぜ込んだ茶を飲ませておき、女が潤った頃に篭って、すぐに事に及ぶ。しかし先程の陽菜への態度は違う。

「…シャーラム王家は日本人秘書の女性に弱いのか」

弟王子サイードも日本人で秘書、陽菜の同僚である美月に夢中だと言う。疑いようもない。アリーはすぐに食事が出来るよう手配を済ませる事にした――。




腕の中で寝息を立てる陽菜を、アズィールは穏やかな気分で見つめていた。抱いた女たちでさえ、こんな風に抱き締めた事はない。脱いで待たせ、背後から突き上げて、果てるなら外に。
しかし物腰の柔らかい印象とは違い、アズィールの情欲は深く激しい。時間に余裕があれば、何人でも相手にしただろうが、性交を覚える頃には多忙な日々だった。それは自身も理解しているが、性交自体に興奮を覚えたことはない。「公務の一環」でしかないのだ。

「サイードは…永遠を見初めた。私にも、あるのだろうか…」

胸に頬寄せる陽菜は香水をしていた。有名ブランドのものだと思われるが、陽菜には全く似合わない。その先を思ってアズィールが息を飲んだ。【ヒナに付けさせるのなら…】それは妻とする相手にするものだ。過去にどれ程似合わない香水を付けた女であろうと、その香りをイメージする事はなかった。

「…我々兄弟は日本人女性に弱かったのか」

苦笑すると、陽菜が小さく身じろいだ。フッと笑みを零し、優しく呼び掛ける。

『ヒナ』

応えるように瞼が開かれる。茶に近い黒の瞳が、ぼんやりとアズィールを映した。

『で…、…か?』
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