月夜のメティエ
◆ソステヌート
◆ソステヌート

 やっと出したコートはクローゼットの奥の匂いがする。1回クリーニングに出せば良かったなぁ。襟元の匂いをスンスン嗅ぎながら、通勤電車に揺られていた。

 昨日の同窓会は、奏真と連絡先を交換して、もう本当に会場に居たくなくて、体調不良を理由に帰ってきてしまった。マーコも一緒に帰るって言ってくれたけど、せっかく出てきたんだし、居た方が良いよと置いて、自分だけ出てきた。なによりも、あのあと奏真と、マーコと美帆ちゃんとお酒を飲みながらにこやかにお喋りする気力なんか無く、今すぐに逃げ出したくて。
 マーコ、怒ってるかなぁ。今日の夜、電話してみよう。(LINEやってないし)

「相田さん。今日カズヨ先輩休みだそうです」

 先に来てた新人くんに挨拶すると、そう言われた。

「そうなの? ありがとう」

 風邪でもひいたのかな、カズヨ先輩。フロアを見回すと、遠坂部長の姿が見えない。また喫煙所でも行ってるのだろうか。カズヨ先輩が居ないから全部あたしに降りかかって来るだろう。

 先日のミスを挽回するようがんばるしかない。いつまでも甘えてはいけないんだ。

 ねじりはちまきを心に結んで、気合いを入れた8時30分。新人くんが自分で飲む為に煎れたコーヒーの香りが立ちこめていた。

 コンビニのおにぎりとサラダ、豆乳を自分のデスクで食べる。毎日、休憩室で食べるかここで食べるかのどちらかだ。遠坂部長は新人くんを連れて近くのラーメン屋に行っている。午前中は何事もなく進み、あとは午後の業務を滞りなくこなせば、今日1日が終わる。そういう風に過ごしていた。この間までは。奏真に再会するまでは。

 1日中、奏真のことが頭から離れない。考えない時間は無かった。
 大人になって再びあたしの前に現れた奏真は、ピアノをまだ続けていてくれた。優しい音色と、あとあの笑顔。また出会えたことはすごく嬉しいんだけど……。

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