『ホットケーキ』シリーズ続編- 【 蜜 海 】
3.
 向かいのマンションの上に、月が見える。蜂蜜色の月は、刷毛で引いたような夜の闇にまるで異次元への入り口のようだった。この夜は確かに次元が変わりそうな夜だ。湖山はふと、宇宙船のようだったギャラリーの最終日の夜を思い出す。初めての個展の最終日。準備と片づけを頼もしく手伝ってくれた大沢。あの日、ビスを手にした大沢がふと見せた表情。湖山を振り返らない大きな背。思えばあの日に何かが変わり始めたような気もした。「大沢…?」そう呼びかけたかったのに、呼びかけられなかった。その飲み込んだ一言が、湖山の心の中を巣食っていったのかもしれなかった。

 湖山は真剣になると怒ったような顔になる。分っているのに湖山は口の端を上げる事ができなかった。まるで睨むような目で大沢を見上げていた。

 「酔ってないのにそんなこと言って、後でやっぱ帰ってって言っても、俺、帰らないよ?」

 大沢は苦々しく笑って言った。笑って、目を伏せて、自分の足元を見詰めていた。湖山はマンションの入り口の低く広い階段を三段上がって大沢を待った。大沢は動かなかった。大沢が顔を上げて、二人は暫らくの間見合ったけれど、どちらもそこから動こうとはしなかった。

 もしも、今夜、大沢が本当にそこから動かないのだとすれば、そして、湖山が一人でそのドアを入っていくのだとすれば、この先二度と二人でこのドアを跨ぐ事はないのではないか。湖山がそう思うのは、大沢の湖山に対する潔癖さを知っているからだ。彼がそう決めたならきっと二度とそんなことはないのだ。

 彼の手を取って来ようか。でも、それでは意味がない。彼の意思でここまで来て欲しい。湖山が言った言葉の意味をきちんと受け止めて欲しい。そこから始まらないといけない。

 大沢はもう一度湖山から目を逸らして大きく溜息をついた。あるいはそれは深呼吸だったのかもしれない。広い肩を一度そびやかすようにして、そして息を抜くと、湖山を見て大きなストライドでゆっくりと湖山の方へ向かって来た。大沢はいつものように穏やかな顔をしていた。そして、湖山のまん前まで来て、
 「知らないよ、ほんと。」
 と言って微笑んだ。湖山は知っている。彼のその言葉は、湖山を甘やかす最大の表現なのだということを。



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