恋するバンコク
私の親友
 タワンが、ヨウちゃん?

 言われたことの意味がわからず、
「なに言ってるの?」
 ひく、と片側の口を上げる。
タワンのふざけた冗談を、どう受け止めていいのかわからない。
 タワンは体の力をぬいて、結の顔の脇に突いたままだったもう片方の手を離した。
「やっぱり信じてもらえないか」
 信じるもなにも。
ヨウちゃんは、女の子なんですけど……。

 どう返せばいいのかわからず黙っている結の手を取って、
「おいで」
 そう言うと結をリビングへと連れていき、四人掛けの革張りのソファに座らせた。タワンはソファ脇の飾り棚に置かれた箱を取り上げて、その中から何かをそっと持ち上げた。
 ふしぎそうに見つめる結に柔らかく笑いかけると、薄紫色の布にくるまれたそれをゆっくりと開いていった。なにか尊い宝物が包まれているような恭しいしぐさに、知らず身を乗り出す。
「なに……そ」
 かがみこんで見て、言葉を失う。
 
 タワンの掌にある、一枚の写真。
 コンドミニアムの前に、二人の女の子が並んで座っている。
 一人は、幼いころの結。そしてもう一人は、

「……ヨウちゃん?」
 いつ撮ったのかも覚えてない、端の切れた色あせた写真。だけど彼女が着ているキティーのタンクトップには見覚えがある。
 
 写真から目を離して、ゆっくりと顔を上げる。
 なんで?
 結の瞳が驚きを伝えていた。タワンは曖昧に笑ったまま、
「上に姉さんがいるんだけど、昔は彼女の着せ替え人形みたいにされてた。女の子みたいな髪型とか、洋服着させられて」
 思い出すように、目元を柔らかくする。
「女の子だって勘違いされてるんだって、すぐわかったよ。けど言えなかった。男の子とは友だちになれないんだって、すごく悲しそうな顔で君が言うから」
 そう言うと、ふっと眉尻が垂れた。憂えているような、さみしさを湛えた目。
「ずっと黙ってて、ごめん」
 タワンの言葉を、すぐには飲みこめなかった。言われた言葉が頭の中でカツンと弾き返されて、信じられない気もちで相手を見つめる。

 今この時まで親友だと思ってた子が、男の子?
 この、タワンが、ヨウちゃん?
 
 タワンはさみしげに見えた表情を緩めて笑うと、
「そうだな、じゃあ僕たちしか知らないことを話そうか」
 たとえば、と結に身を寄せる。革張りのソファが体重が移動した分だけ少しへこむ。
「僕のファーストキスは、ユイだってこととか」
 そう言ってタワンは今までとは一転して、艶のある笑みを浮かべた。慌てて身を引くと、ソファの背もたれに勢いよく頭がぶつかった。
「な…………!」
 思い出して、真っ赤になる。
 最後にヨウちゃんと会った日。涙を浮かべたヨウにキスされたこと。
「最後だし、いいやと思っておもいきってよかったな。ユイもはじめてだったよね?」
「あ、たりまえでしょ! 小学生よ!」
 反射的にそう返しながら、本当に? と胸がドクドク鳴る。
 結の手を、タワンが握る。タワンはもう片方の手で胸元に垂れるペンダントに触れた。
 びくん。
 体が揺れる。

「このペンダント」
 
 甘くかすれた声でタワンが囁く。
「いつか渡したいってずっと思ってて、それなのにいつも渡しそびれてた」
 ペンダントを親指がそっとなぞる。自分が愛撫されているような錯覚が、肌をざわざわと這っていく。頬に熱がこもって、まだ言われたことの意味をきちんと受け入れられてないのに、心臓は速い鼓動を刻み続ける。 
「あのメッセージを伝える時は、僕が本当のことを言うときだったから。最後の最後になってようやく渡せて、でも結局言えなかった」
 ペンダントを見つめるタワンの目が、なにかを思い出すように微かに眇められる。
「ずっと恐かった。もし君が本当のことを知ったら、嫌われるんじゃないかって。だけど本当はずっと言いたかったんだ。僕は女の子じゃないって」
 軽く握られていた手を改めて握りなおされて、それがスイッチのように顔つきが変わった。
 真剣な男の人の、顔。
 
「僕は君を愛してるんだって」

 言葉の強さが胸を強く打った。
 真っ白な衝撃がはしって、数秒。沈黙の後に、

「ヨウ、ちゃん」 
 無意識に親友の名前が零れ落ちた。

 今日はなにして遊ぶ? ユイ。
 
 高い声で自分の名前を呼んで笑う、小さな結の親友。揺れる長い髪。小鹿のような眼差し。二人並んで眺めていた屋台の列。最後に泣きながらされたキス。

 ジューマイガンナー――また、会おうね。
 そう。彼女は最後、そう言っていた。

 くるくると思い出のかけらが散らばって、目の前に立つ男の人へと形を変える。

 タワンなの?
 本当に?

 タワンは目元を和ませた。やさしいぬくもりが伝播するような、あたたかな笑み。
「ねぇ、どうしてユイが僕をヨウって呼んだか、覚えてる?」
 ゆっくりと首を横に振ったら、その拍子に涙が零れた。どうして泣いてるのか、自分でもよくわからない。
 
「――タワンだから、ヨウちゃんだね」
 え? と尋ねるようにまばたきを一つする。タワンは微笑んだまま言った。昔を思い出しているのか、その目は柔らかくあたたかだった。
「そう君が言ったんだよ」



「ねぇ、ヨウって呼んでもいい?」
 ノアがアッシャーをアッシュと呼んでるように、結も友だちをあだ名で呼んでみたかった。ヨウは頷いて、また小さく首を傾げた。
「どうしてヨウなの?」
 結は胸を張って、友だちに伝えた。
「それはね、太陽だから」
「タイヨウ?」
 突然聞いた日本語に、彼女がうっすら眉を寄せる。うん、と結は嬉しそうに大きく頷く。
 今聞いたばかりの彼女の名前。
 タワン・パラハーン。
 タワンはタイ語で、太陽という意味。なんて素敵な名前だろう。聞いた結の胸も、ポカポカと明るく温まる。それは、ようやく友だちと巡り合えた感動によるところが大きいのかもしれなかったけど。
 まさにタワンは結の太陽だった。そんな彼女に、自分だけが呼ぶ特別の名前を付けてあげたい。
 ぽうっと結を見つめるタワンに――ヨウに、結はにっこり笑って言った。
「タワンだから、タイヨウの、ヨウちゃん!」
 
 タワンは、懐かしい映像を目で追うかのように目を細めた。
「その時のユイの顔が、本当にタワン――お日様みたいに明るくて、かわいくて」
 ペンダントに触れていた手がするりと離れて、結の涙を拭うように頬に触れる。結はまんじりともできず、タワンを見つめていた。

 思い出した。
 彼女の――いや彼の、本当の名前。
 ヨウちゃんじゃない。
 あの子は、私の親友の名前はタワン。

 タワン・パラハーン。
 目の前の、彼の名前だ。

 タワンは結の目尻から頬をゆっくりと指先でたどって、その後に頬を包むように手を添える。こちらに身を乗り出すタワンの長い睫毛を、ぼうっと目で追う。

「あのとき僕は、君に恋をしたんだ」
 
 タワンなんだ。
 そして、ヨウちゃんなんだ。
 
 結の胸に、その事実がじわじわと刻まれていく。
「はじめて会ったとき、なんてかわいいんだろうって思った。だけど今は、その時よりもずっと」
 少しかすれた声はお互いの唇の間からこぼれた。タワンの気配が濃くなる。
「君が好きだよ」
 かすかにソファが軋んで、頬に添えられた手の指先が結の耳を挟む。
 タワンの後ろに、かつての親友の姿が重なった。
 泣いてる結のそばに現れた親友。再会したとき、男たちから助けてくれたひと。庇ってくれる。怒ってくれる。
 ずっと結を見守り続けてくれたひと。

 そう思ったらもう一度涙が流れて、その涙が唇をつたう。
 涙の跡を拭うように、タワンの唇が結の唇にそっと重なった。
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