恋するバンコク
ずっと一緒に
「ありがとうございました」
 結はそう言って深くお辞儀をした。コンビニの店員にしてはやや丁寧すぎるその礼を、ペットボトルとタバコを買ったサラリーマンは見ることもなく出口へと向かう。軽快なメロディが鳴って、自動扉が開閉する。
「ユイさん。ここはダイジョブなので、スィナダシお願いシマス」
 フィンが結に声をかけた。求人誌を取った時に目が合った彼は、フィリピン人だそうだ。タワンとよく似た肌の色で、タワンよりも片言の日本語をつかう。スィナダシ――品出しの依頼を受けて、結は頷いてレジを離れた。

 けっきょく就職先は決まらず、つなぎでアルバイトをしている。なにかの会員カードを作るとき、職業欄に無職と書かないだけマシなのだと自分に言い聞かせている。その一方で、正月を目前に実家からの連絡が頻繁に入るようになった。いつからお休みなの、とかいつ帰ってくるの、とか。
 未だに前の職場でOLを続けていると信じている親に向かって、コンビニのバイトが忙しいから帰れませんと言ったらどんな顔をするだろう。そんなことを考えては、今忙しいから、とスマホを切ってバックヤードで廃棄の弁当を食べる。はっきり言ってみじめだ。

 でももう、実家に帰るのもありなのかなぁ。

 これ以上東京にいる意味もない気がした。スイーツコーナーの前にしゃがみこんでワンカットのケーキを並べていきながら、浮かんだ考えについて検討する。並べられたイチゴのショートケーキには、オモチャのヒイラギの葉が一枚刺さっていた。プラスチックケースの上から赤いリボンが巻かれて、金色のシールに描かれたメリークリスマスの文字。並べる端から、後ろにいたカップルの男の子が手を伸ばしてきた。

「ホールにしようよぉ。ブッシュ・ド・ノエル食べてみたい」
「二人じゃ食い切らないって」
 文句を言う女の子を男の子が諌めてレジへと向かう。女の子はエーと言いながらも、彼のコートの裾をつまんで後へと続いた。そんな二人を見るともなく眺める。そのまま店内へと目を向ければ、いつもよりたくさんの客が雑誌コーナーにたまっていた。なにかを買うわけではなく、待ち合わせが目的の人たち。雑誌をめくりながらスマホに目を落とし、時間を確認している。
 目の前に並ぶケーキの賞味期限を見て、なるほどと納得する。12月24日の表記。

 そっか、今日がクリスマスか。

 最近特に日にちの感覚があいまいだったから気づかなかった。ふ、と唇が片方上がる。
 コンビニのアルバイトしてクリスマスが終わるなんて、高校生の時以来だ。
 だからどうだということもないけれど。家賃の引き落としが続く限り、高校生の自分よりこのポジションは意味が大きい。
 また入り口からメロディ音が鳴って、自動扉が開く。チラと目線をやると、OLらしきスーツの女性がダンボールを両手に抱えてヨタヨタと入店するところだった。結はサッと立ち上がって駆け寄る。
「大丈夫ですか」
 言いながら両手いっぱいのダンボールを受け取る。その人はホッとしたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
 反射的にニコリと笑いかけてレジまで持っていく。なにが入ってるのか、かなりの重さだ。けれど顔に出すことはなく、レジの列に並ぶ人たちの間を失礼します、と言いながらゆっくりと進んだ。
 電子レンジが置いてある台の脇に静かに置く。フィンがお客にお釣りを渡しながら目を丸くした。
「ユイさん、チカラモチですね」
荷物持ちは得意だから。
 心の中だけで答えると、薄く笑った。



 アルバイトが終わって鞄を肩にかけると、鞄の中でスマホが薄黄色のランプを点灯させているのが見えた。
 着信ありの表示とともに、名前の表示されない未登録の数字の羅列。着信の日付を見ると昨日の朝方になっていたけど、全然気づかなかった。日付の感覚がなくなったのは、スマホを見なくなったからだろうな、と他人事のように思いながら画面に浮かぶ番号を眺める。未登録のそれは、けれどふしぎに見覚えがあった。

 あとで調べなおそう。
 そう思って、夕飯用にもらった廃棄弁当を片手に提げてアパートへと歩いて行く。バンコクの昼は長かったけれど、日本の冬の日照時間は短い。四時前には薄橙色の日差しが街並みに滲んで、七時を過ぎた今はもう真っ暗だった。家々の街灯がぽっかりと丸く周辺を照らす。通り過ぎた家から香るお風呂の匂いと笑い声。

 クリスマスか。
 
 吐く息が白く濁って闇に消える。その息の向こうに、丸い月が浮かんでいた。もうアパートは目の前なのに、そんなものを見てしまったから、足は止まった。
 最初のころタワンに連れて行ってもらったあの、月をイメージしたホテルを思い出す。ディナーメニューを見る真剣な顔。まだ二人が恋人じゃなかったときのこと。
 満月みたいな、球体の薄黄色の照明。ガラステーブルの上に置かれた花器に生けられた蘭。ホテルの光を受けて光るチャオプラヤー川。
 ここでこうやってコンビニ弁当なんて持ってると、あの国にいたことが全部ウソみたいに思えてくる。
 それなのにこれから先結はずっと、あの一ヶ月に満たない記憶を何度も思い返すんだろう。胸を優しく苦しく、かき混ぜられながら。
 ふぅと諦めたように目線を下げて歩き出す。コンビニの袋が微かにこすれる音をたてる。

 クリスマスのホテルは、きっと忙しいだろうな。
 ふっと淡い笑みを浮かべる。
 想像してみる。あの真黒なスーツに蝶ネクタイをつけて、恭しくゲストに頭を下げるタワンを。着飾ったお客さんたちよりもずっと華やかでかっこいいはずだ。
 でも少し疲れてるかもしれない。年末年始はかきいれ時だから、休みもないはずだ。体を壊さないでいるといいけど。
 元気でいてほしい。
 
 そんなふうに思いながらアパートの門をくぐり、提げていた鞄から鍵を探る。スマホの下に入りこんだ鍵を出すのに少し苦労して、顔を上げて。
 ピタリと足が動かなくなった。
 
 ――――うそ。
 
 扉の間に、そのひとは立っていた。
 心臓が強く鳴る。うそだ、そんなの。
 結がなにか言うより早く、その人は振り返った。目が合う。

「――――あ」

 ダンッ。
 コンクリート造りの廊下を蹴る音が大きく響いた。固まったまま、その音を聞く。
 うそ、うそと、壊れたオモチャのようにその言葉が頭をまわる。
 直後、熱におおわれる。強く強く、抱きしめられた。

「ユイ」

 ぶわ、と涙がもりあがる。
「…………た」
 呼ぶ声は押し付けられた胸に吸いこまれる。見たことのないネイビーのダウンジャケット。冬服の彼をはじめて見た。

「タワン」

 確認したくて、名前を呼ぶ。
 タワン。
 首をぐっと上げてのぞきこんだ。
 外廊下の白っぽい蛍光灯がカフェオレ色の肌を照らしている。夜の色をした髪と、同じ色の目が結を見て微笑んだ。

「ヤークジュー(会いたかった)」

 久しぶりに聞く異国の言葉。もう一度タワンは結を抱き寄しめる。肩口から香るタワンの匂いにくらり、と眩暈が起きそうになる。

 どうしてここにいるんだろう?
 あのときあんなに傷つけた。
 君はひどい人だな。そう言ってたのに。

「もっと早く来たかったんだけど、説得に時間がかかった」
 耳元でタワンは言う。言葉の意味を理解するより早く、タワンはクッと笑って肩をすぼめた。
「その後、ここを調べるまでにまた数日。気が変になるかと思ったよ」
「……どうやって」
 声は震えていた。調べ上げられたことを恐がったわけじゃない。だけどタワンは結の態度をどう取ったのか、眉を寄せて唇の端を上げた。
「瞳さんにお願いして、高志さんに聞いてもらったんだ。何度も断られたけど、昨日ようやく聞いてもらえた」
 タワンの口から出た瞳という言葉に、胸がザックリと切り付けられる。

 まさか本当に、二人は付き合ってるんだろうか?

 鼓動が胸を内側から強くたたく。なにも言えない結の前で、タワンは抱きしめる腕を緩めて顔を覗きこんだ。
「とりあえず、中に入れてもらえる? 日本は寒いね」
 そう言ってぶるりと体を震わせる。南国育ちの彼からすれば、この季節のしかも夜なんて、耐えられないくらい寒いはずだ。
 こんなところでどのくらい待っていたんだろう? 
 寒そうに肩を縮めるタワンの体をさすってあげたい衝動を抑えて、結は急いで鍵をドアノブに射した。
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