私の優しい人
◇9◇
 リビングに入ると、母が炬燵に潜り込んで眠っていた。
 キッチンからは炊飯器が蒸気を立て水分を飛ばすような音が聞こえる。

 昼食の準備が終わり、のんびりとテレビを見ている途中で気持ちよくなってしま
ったようだ。

 母には母の生活があり、私が高校生になった頃からは友達と旅行に出たりして楽しんでいる。

 関係性はともかく男性の友達もいるらしい。
 もしかしたら私よりも充実した生活かも。

 私たちの親子関係はそれほどべたべたしていない。
 母の力の抜けた寝顔に思わず微笑む。

「お母さん。無理しないでね」
 聞こえていないのは承知だけど、言わずにはいられない。

 その後に返ってくる言葉は分かっている。

「無理はしない。里奈を一人にはしないから」
 笑顔を引っ込め、その時ばかりは真剣な顔で言ってくれるのだ。

 父を亡くし、その次に母までも失いたくない。

 呼吸で上下する炬燵布団を確認してほっとする自分。
 その寝息に私の肩が下がる。

 よかった。今日もお母さんは生きている。


 普段は忘れてしまっている。

 でも窓から斜めに差し込む安らかな陽だまりを見ていると、その暖かさに反して、昔の自分の痛みを思い出してしまう。

 テレビから聞こえる無遠慮な笑い声が、膜をはったように遠ざかる。


 夜、小さな私は膝を抱えて布団に潜り込む。すると揺らぎのなかった感情が徐々に振動し始める。
 夜が濃くなるほど不安は増し、夜明けとともにそっと薄れていく。

 大人になり、そんな思いは過ぎた事だと思っていたけど、ふとした拍子に、こんな風に悲しみに似た感覚を取り戻してしまう。
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