結婚したいから!

二人目のお客さまに関する報告

とうとう来た。


From 高林 玲音
Sub 無題
本文
話したいことがあるから、会ってくれる?
次の月曜日、6時に、店の傍の公園で。
都合が悪ければ、知らせて。


偶然、カフェにいる彼を見かけたその翌日、そのメールは届いた。

とうとう、っていうのか、やっぱりっていうのか。待ってて、って言った以上、いつかは連絡が来るとは思っていた。


玲音さんは自然消滅とか、狙いそうにないし。…って、もう何を言われるのか、自分で予想してしまっていて、ひとりなのに苦笑を浮かべている。

でも、もう、嫌な予感しかない。


あんなに強く、お互いの気持ちを感じ合ったと思っていたのは、わたしだけの勘違いだったんだろうか。今でも、あの晩、玲音さんが言ってくれた誠実な言葉たちを、嘘だとは思えていない。


たった10日ばかりで、状況がこんなに変わるなんて、思いもしなかった。


「大丈夫。行きます。」と書いただけの、短いメールを返信した。
月曜日まで、あと、4日。

玲音さんに、あれほど会いたかったのが、嘘のよう。

この4日のカウントダウンは、嫌なものだった。

月曜日なんか来なければいいのに、と言う気持ちが強くなりすぎて、その次には、こんなにしんどいなら、さっさとその日が来てしまえば楽になるのに、と思い始めた。大事な試験や面接がある日を迎える心境に似ているかもしれない。


そんな葛藤を抱えているうちに、とうとうって言うのか、ようやくって言うのか、まあ、とにかく、約束の日がやってきた。


よし。駅のトイレで、鏡の中の自分を、点検する。ぐっすり眠れなかった割には、いつもより、いくらかいいような気もする。

心の中はぐちゃぐちゃだったけど、あのメールが届いてから、1日だけお休みを貰って、ピンクさんのサロンに行ったからだろう。

少し伸びた前髪を切って、サイドのバランスを整えてくれた。それから、なかなか上達しないメイクの仕方を、もう一度教えてもらったのだ。


「何か大事な用事があるのぉ?この前来たとこなのにぃ」

と、ピンクさんは、今はぐるんぐるんに巻かれたピンクの髪を揺らして、首を傾けた。

「決戦の日が来るんです」

と言うと、ピンクさんはちょっとだけ笑って、「特別サービスだよぉ」って言いながら、わたしの爪まで綺麗にしてくれた。サロンのメニューにはネイルのコースはないから、マニキュアは、たぶん、ピンクさんの私物だと思う。


鏡越しに、ピンクベージュのフレンチネイルが施された爪も見える。こんなときにだって、必死でお洒落しようとがんばっている自分が滑稽で、ちょっと笑えた。
うん。大丈夫。

自分に言い聞かせながら、約束の場所へ向かう。まだ時間はあるはずだ。急ぐ必要はないのに、いくらか通い慣れた、駅からの道を歩く足取りは次第に速くなる。

降り続いていた雨が、今日は午前中で、ふいに止んだ。

慣れない靴が、お気に入りのワンピースに、水溜りの泥水を跳ね上げないように気をつけながら、とにかく歩く。

あまり履かない、ヒールのあるお気に入りの一足に押し込んだ足は、すでにつま先や踵が靴ずれし始めている。


…痛くなんか、ない。


言い聞かせ続ける。わたしは、大丈夫だと。


いつもはのどかな風景の、小さな公園が見えてくる。夕方に来るのは初めてで、傾いた上に熱い雲に阻まれて、太陽の光もたいして届かないせいか、ずいぶん寂しい場所に見える。


い、た。


まだ時間はあるはずなのに、玲音さんは、いつものベンチに腰かけていた。

遠目にその姿を認めるだけで、こうして勝手に胸が高鳴る。

会うのが怖いのに、嬉しい。


玲音さんは、膝の上にそれぞれの肘をついて、その両手を組んでいる。顔は、少し俯いていて、見えない。
しつこかった雨が上がったことすら、何かの予兆のようだ。頭に鳴り響く警鐘の様な痛みに、気がつかないふりをして、彼に近づいた。


大丈夫。足は、震えてなんか、いない。

ふらつかないように気を遣っているのは、ぬかるんだままの土に、一歩一歩、わずかにヒールが沈むからだ。


「こんにちは。玲音さん」

いつものように、声をかけることができたと思う。


はっと顔をあげて、玲音さんは、眩しそうに目を細めてわたしを見た。

どきんどきんだか、ずきんずきんだか、胸は変な音を立てている。でもそれは、わたしの耳にしか、聞こえないはずだから、と言い聞かせながら、微笑んでみる。

ちゃんと、笑えただろうか。



「ごめん、海空ちゃん」



心臓は、今度こそずっきんと大きな音を立てた。

もう、全然、笑えていないだろう、わたし。

だいたい、男の人に「ごめん」って言われるのが、好きじゃない。


全く思い出さなかった元彼のことを、急に思い出す。「俺が悪い。ごめんな」の後には、はっきりと「別れよう」って言われたはずだ。

どうして、こんなときにはひょっこり出てくるのかな、頭の中に。いや、こんなときだから、か。


嫌な徴候。

首を横に振ったのは、何かを追い払うため、みたいになってしまった。ごめんって、何に対してなのか、訊きたいのに訊けないのは、いつものこと…。

あれこれ、頭の中が忙しかったから。次に、玲音さんの声がはっきりと、私の耳に届いた時には、何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


「もう、会えない」


会え、ない?


まっすぐ見つめてくる玲音さんの目は、その言葉が冗談じゃないってはっきり伝えてくる。

聞こえなかったふりをしたいのに、耳を塞ぐこともできず。
見えないふりをしたいのに、目を瞑ることもできない。

大好きだった人の顔を、こんな状況でしか見つめられないなんて。

どうしてこんな残酷な羽目に陥っているんだろう。
「嫌です」


一瞬、誰の声かと、思った。

玲音さんが、わずかに目を見開いていて、ああ、わたしの声だったんだ、って思い直す。しんと、冷えたような、乾いた声だったけど。

でも、日が沈んでいく公園には、雨上がりのせいか、時間のせいか、たったひと組の親子連れも、ひとりで休息をとるサラリーマンすらも、見当たらない。


「もう、会えないなんて、嫌」


訳が分からない。

急にこんなことを言いだした玲音さんも、決別宣言をされているのに嫌だと言い張る自分も。

どんな理由があっても、別れたいと思われたなら、そこでわたしの恋は終わる。それが、わたしのスタイルだったはずだ、これまでは。


「どんな理由があったって、嫌だもん」


それなのに、言葉が、勝手に口からボロボロこぼれてしまう。過去のわたしだけが戸惑いながら、それを聞いている。

「ごめんね。俺が、悪いんだ」



ああ、その言葉も苦手。ずっきんずっきんと、いつか胸に刺さった杭が、再び痛みはじめるのを感じる。

でも、どうして?

玲音さんの方が、うんと、辛そうな顔をしているのは。


どこかが痛むみたいな、切なげな表情に、今度はわたしの胸の痛みの種類が変わってしまう。そこまで、あなたを苦しめているものは、何なのだろう。

明るくて、優しくて、元気がよくて、いつも楽しそうにしていたのに。

玲音さんの表情の違いに思いを馳せてしまうと、はあ、って、大きなため息が出た。


「どんな、悪いことを、したの」


玲音さんの、沈んだ表情を見たら、もう冷たい声は出せなかった。その代わりに出てきた言葉は、なんだか、いたずらをした子どもに、訳を尋ねる母親みたいな訊き方になってしまった。


結局、わたしはまだ彼のことが大好きなんだ。

彼と離れることは辛いし、やっぱり、嫌だと思う。こんなことになってしまった理由だって、知りたいと思う。でも、自分からこうして、訊いてみる気になったのは。


玲音さんが、どうしてそんな顔をするのか知りたい。
それが、好奇心から来るものじゃなくて、話を聞くことで、彼の重荷を軽くしてあげたいって思っている。もっと言えば、できることなら、その理由を取り除いてあげたいとすら思っている。


…なんて。本当に、わたし馬鹿だなぁって、自分でも思う。


もう会えないってはっきり言われてるくせに。それって、わたしに、何かして欲しいどころか、関わらないで欲しいって、暗に言われてるってわかってるのに。


「…俺は、それを、海空ちゃんに話すべきなのかどうか、今でも迷ってるよ」


玲音さんは、遠くを見て、考えている。


「どっちが、海空ちゃんにとっていいのか、わからない」


…まだ、わたしのことを少しでも考えてくれているのだろうか。ちょっぴり、でもなく、しっかり、胸が熱くなる、ゲンキンなわたし。


「話してほしい」


玲音さんのために聞いてあげたかった、というのが動機だとしても、それを望んだのは、わたし自身だ。

このとき、わたしは、はっきりと、彼から理由を聞くことを選んだし、その意思を表したのだから。
聞くんじゃなかった、かも。


思った以上に、衝撃的で、わたしは言葉が出てこない。

何度も座ったことのあるベンチなのに、はじめてきた場所みたいに、体がこわばっている。


それに、この、距離。

玲音さんが、隣に座っているのに、とても遠くに感じる。いつもより、体と体の距離も開いているけれど、もっともっと遠くにいるみたい。


この人は、わたしの知っている、玲音さんなんだろうか。

それとも、わたしが知っているつもりだっただけで、玲音さんはこういう人だったんだろうか。


重苦しい沈黙は、張り詰めた空気は、まだ、わたしの意識を連れ戻してはくれない。

かといって、玲音さんが、もう一度口を開く気配もない。



「俺、どこかの女の子を妊娠させたかもしれない」




確かに、玲音さんはそう言った。

短いのに、その一言は、かなりの打撃をわたしに与える。

当然のことながら、「妊娠」って単語が、まず、衝撃的。

さらに、「どこかの女の子」ってところが、後から揺さぶりをかけてくる。

最後に、「かもしれない」って言うしかない曖昧な状況なのかと考えると、ずきずきと頭まで痛んでくる。



…ああ、でも、わかった気がする。

玲音さんが、なかなか会ってくれなかった訳だけは。わたしをアパートまで送ってくれた日には、その出来事を、玲音さん自身も知らなかったってことだ。

何かのきっかけで、それに気がついて、落ち着くまではわたしに会う気にならなかったんだろう。それに、どんな事情があるのかはわからないけど、その出来事が本当にあったことなのかどうかは、いまだにはっきりしないんだ。

と、言うことは、ずいぶん前に、そういう女の人が存在したってことなのかな。

いや、だとしたら、どこかの女の子、という表現はしないか。


ああ、わからない。

でも、玲音さんの苦しみを取り除いてあげるなんて、わたしにはとても無理なこと、らしい。


それどころか、自分が想像以上の、ものすごい衝撃を受けて、身動きがとれなくなってしまった。


どれくらいの時間が経ったのだろう。


「海空さん」


名前を呼ばれていることに気がついたら、公園は日が沈んでさらに寂しく冷えた空気に満ちていた。

「玲音も。雨降りそうだし、店ん中に入れば」

大山さんだった。


先に、玲音さんが、ゆっくりと立ち上がる。

お仕事の邪魔になるんじゃないかって、少し躊躇したけれど、きっとこのまま黙って帰る方が、彼らに心配をかけることになるだろうって、自分を説得して、ようやく重い腰を上げた。


もう、玲音さんはわたしの手をとってはくれないんだな。


そう思いながら、ひとり、少し前を歩く彼の広い背中を見ると、初めて、涙が滲んできて、わたしはぐぐっと奥歯を噛みしめた。まだ、泣かないぞ、って。
初めて、直接厨房に入れる裏口から入れてもらう。もう綺麗に片付いていた。

厨房の隣には、小さな部屋があった。壁際にはスチール製の細長いロッカーがいくつか並んでいる。真ん中には、二つくっつけた長机と、その周りにいくつかのスツールがある。休憩室兼ロッカールーム、という感じだ。

大山さんと玲音さんが、向い合せに端に座ったので、ふたりから一番遠くの椅子を選んで座った。

「玲音、ちゃんと説明してないでしょ」

大山さんが、苦笑いして、玲音さんを見ている。「んー」って、またどっちかよくわからない返事をして、玲音さんは相変わらず、ぼんやりしている。

「こいつ、こう見えて自分に厳しすぎるんだよ」

今度は、大山さんはこちらを見ていた。でも、すぐに玲音さんの方に向き直る。

自分に厳しすぎる、か。

それは、他の女の子を妊娠させたことが理由で、わたしと会わないことに決めた、ってことを言っているのだろうか。「なんて、言ったの?」

「…だれかを妊娠させたかも、って」

小さい声で、諦めたように、玲音さんが答えている。

「それだけ?」

「うん」

「馬鹿じゃね?」

「うん」

「あほだよね」

「うん」

大山さんと玲音さんが、静かな声で話している。いつものやりとりが、ちっともおかしくないことで、思った以上の傷を受けていることがわかるけど、まだ、そのこともわかっていないふりをしていよう。


「海空さん」
わたしが顔を上げると、大山さんは、わたしを探るみたいに瞳の中を覗き込んでいるみたいな顔をしている。

「玲音は、言い訳が嫌いだから、話さなかったことがいっぱいある。そのかわりに、俺が、話せることもある。

俺には、こうなるきっかけを作った責任もあるんだ。俺から、話をしてもいい?」


玲音さんは、少し睨むみたいな目で、わたしに語りかける大山さんを見ている。

玲音さんは、自分の意思を隠して、わたしに理由を聞きたいか聞きたくないかを選ばせた。あのときに、聞く方を選んだのはわたしだ。


今、大山さんは、話をしていいかと許可を求めているだけだ。同じ選択肢が用意されているようだけれど、大山さんははっきりと自分は話したいという意思を持っている、ってことを示してくる。

それなら、とことん聞くだけだ。もう、充分驚いた。


傷つくのは、このお店を出てからにしよう。


「はい。話してください」


背筋を伸ばして、大山さんをまっすぐ見つめた。
「先月、新しく雇ったアルバイトの子の歓迎会をしたことは、憶えてるよね?」

もちろん、よく覚えていた。

「あのとき、玲音がコンタクトをしていなくて、酔っ払って眠っていたことも?」

頷いて見せる。

「あれから、海空ちゃんは、電話がかかってきて、慌てて帰ったでしょ。

俺は、あの後、店に明日の準備をしに戻ったんだ。1時間弱で戻ってきたけど、そのときには、もう玲音の姿がなかった。居酒屋の店員に訊いたら、タクシーを呼んで帰った、って言われた」

うん。



「その日の晩、玲音は誰かと寝た」




……!


あの、晩。母が、急に来た、夜。

わたしが、玲音さんとの結婚を、はっきりと、意識した、あの日に。


「でも、玲音だって、誰でもよかったってわけじゃない」


ずきずきと痛む頭も、どこどこと鳴る心臓も、もうどうすれば鎮まるのかわからない。

けれど、まだ、大山さんの話には続きがあるみたいだ。


「玲音は、その誰かを、海空さんだって信じてたんだ」


…わたし…?


「同じ、ワンピースを着ていたらしいんだ。ほら、淡い水色で、裾に同じ色のレースがついた…」

話しながら、大山さんも、玲音さんも…、もちろん、わたしも、はっとした顔になる。


今、わたしが、着ているワンピースのことだ。
「でも、それが別人だったって気がついた。君から、北海道のお土産を受け取ったときに」


ああ、だから。

あれから玲音さんの様子がおかしくなったんだ。

我慢できずに、玲音さんの方を見てしまう。彼は、ぐっと口元を引き締めて、机に置いた両手を強く組んでいる。指が白くなるくらいに。

わたしから母が遊びに来ていたことを聞いた時、玲音さんは、どんなに、驚いただろう。


今の、わたし、くらい?

無関係じゃないけど、あくまで、わたしは、当事者ではない。

やっぱり、わたし以上の衝撃を受けたに違いない。
「でも、その晩の状況が、どうも、はっきりわからない。ほとんど見えてない玲音は、手が、海空さんより少し大きかった気がする、ってことくらいしかわからないんだ」


そ、っか…。

あの公園で、初めて手をつないだときに、「思ってたより、小さい」って言われたことを思い出す。わたしの体格以上に小さい気がする、っていう意味じゃなかったんだね。

…わたしじゃない、誰かを。抱いて触れたときより、手が小さいみたいだって思ったんだね…。


ぽかぽかあったかかった、記憶の中の場面までも、まったく別の色に塗り替えられていく。
大山さんは、玲音さんを少しの間、見た。

「それに、相手の女の子は、今でも何も言ってこない」


でも。

でもね。

それだけじゃあ、おかしいよ。


「…じゃあ、大山さんと玲音さんは、どうして、その女の子が、妊娠した可能性があることを、知ってるの?」


大山さんと玲音さんが、一瞬、気まずそうにお互いの顔を見合わせた。


だって。

だってね。

その話には、まだ、続きがあるはずだ。

そこは、わたしにも予想ができる。


「…その女の子っていうのが、早川さんじゃないかって思ってるんだよね?」


気のせいではなく、部屋の空気が、しん、とした。降り始めたらしい雨の音さえも、消えたみたいに。

大山さんと玲音さんの、息をのむ音だって、聞こえてきそうだ。


だからこそ、昨日ようやく、玲音さんからの連絡があったのだとしか、思えない。

おととい、偶然見かけた早川さんの様子は、玲音さん以上におかしかったと思う。

笑わない玲音さんも変だったけど、顔が見えないくらい俯いたままの早川さんは、それこそ別人みたいだった。


少し話したことがあるだけのわたしでもわかるのだ。一緒に働いている彼らが気づかないはずはない。


はっ、と短く息を吐いて、大山さんが、再びわたしの方を向いた。


「俺は、状況から見ても、千歳しかいないと思う」


ためらいの見える玲音さんを横目に、大山さんはきっぱりと言い切った。
「でも」

「で、も、じゃないんだよ。あの居酒屋で、俺は玲音を一人にしたわけじゃない。一応、千歳に頼んで行ったんだ」

「だけど」

わたしも、自分が帰ったときの状況くらいは憶えている。アルバイトの子たちはみんな帰ってしまって、玲音さん、大山さん、早川さんが、居酒屋に残っていた。

大山さんが一旦お店に戻ったとしても、まだ、早川さんが玲音さんの傍にいたはずだ。


「お前さ、タクシーに乗ったとしたって、自分の家の場所、ちゃんと説明できたわけ?お前が飲んだときは、俺か千歳が、家まで連れて帰るだろ」

玲音さんは、とうとう黙ってしまった。

「あのとき、千歳はまだ制服だったし、お前着替えないのって訊いたんだ。そしたら、もう着替えも持ってきたから、店には戻らなくていいって言ったんだよ。

あいつ、あの格好のまま帰っちゃうことも多いし、俺は気にも留めてなかったけど」

そこまで言うと、大山さんは、もう一度わたしのワンピースを見た。


「ここからは、推測だけど、たぶん、それとよく似た服を持ってたんだよ」

早川さんが、これと似たワンピースを着ているところを想像してみる。似合わない、とまでは言えないけれど、意外な感じがする。
「…でも、俺が何を訊いても、早川は、何も話してくれなかった」


玲音さんが、ようやく出した声は、かすれていた。きっと、あの、カフェでのことだ。


「なら、どうして、その女の子が早川さんじゃないかって、思ったの?」

玲音さんに訊いたつもりだったけど、大山さんが答える。

「俺の話がきっかけだと思う」

玲音さんが、頷いた。


「玲音が、『あの日、酔っ払って、とんでもないことをした気がする』って、俺に相談してきたんだ。俺も、玲音は酒に弱くても、完全に記憶が飛んだり、ひどいことしたりするわけじゃないって知ってるし、ちゃんと話を聞かなかったのが、まずかった」

うん。わかる気がする。玲音さんの「とんでもないことをした」って、たいしたことなさそう。


「俺、すぐに、『別に海空さんに手ぇ出したりしてなかったし。その後俺が戻ってきたときには、玲音と千歳も帰った後だったし』って答えちゃってさ。たしか…、『俺と早川?』って、玲音は訊き返したと思う」

そのとき、玲音さんは、相手の女の子が早川さんかもしれない、っていう可能性に気がついたんだ。


「でも、そのとき、俺は俺で玲音に相談したいことがあって、玲音の様子に気がつかないまま、玲音に言っちゃったんだ」

「『千歳が妊娠してるんじゃないか』って」


俺、こう見えても結婚してて、子どもがふたりいるんだよね、って大山さんが言う。

だから、気付いたって。

日に日に具合が悪そうになってくる千歳さんの様子が、つわりの症状が重かった、自分の奥さんの妊娠初期の状態にとてもよく似ていることに。


「千歳は、ずっと仕事に打ち込んでたし、彼氏がいるような様子もなくて、さ。何かあったんじゃないかって、心配になって」

大山さんの言葉で、玲音さんが、その時のことを思い出しているかのように、下を向いて、片手でくしゃりと自分の短い髪を掴む。


「…早川が、本当のことを言いたくないんだったら、それはそれでいいって、思ってたよ、はじめは。でも、もしも、俺の子を妊娠してるんだったら」
玲音さんが、机に落としていた視線を、ふいにわたしに向ける。



「もう、放っておけないと思った」



どこまでも、誠実な人なんだろう、ってことくらい、わかってる。



でも、それは、残酷。

なんて、残酷なんだろう。
どうやって、家まで帰ったのか、憶えてない。

いつの間に、ベッドに横になったのか、わからない。


大好きになった人が、他の女の子を抱いた。そして、その子が、妊娠しているかもしれない。


どうやって帰ってきたかとか、いつ寝たとか、忘れられるんなら、この冗談みたいな事実こそ完全に忘れちゃえばいいのに!!

その事実を、どうやって自分の中で消化しようかと、浅い眠りの中で、考え続けていたみたいで。


…当然、寝ざめは最悪だった。

頭はがんがん痛むし、肩も凝ってパンパンに張ってるし、でも、極めつけは、口の中で血の味がすること。

…何をどれだけ噛みしめてたんだろ、わたし。


うわぁ、体だけじゃなくて、顔もひどい。鏡を見て、我ながらがっかり。青いし!むくんでるし!


当たり前か。玲音さんのお店を出て、ドアがぱたんとしまった瞬間から、ずーっと泣いてた。電車でも、たまたま、わたしの乗る区間では、開く扉が片方だけだから、誰も乗り降りしない側の扉にもたれて、泣いてた。

泣くな、って言う方が、無理でしょう!!


「もう会えない」「もう会えない」って、一番忘れたい台詞に限って、何度も脳内でリフレインしてしまう、この理不尽な体。


あー、あったまいったぁーい…。


でも、やけくそで、仕事に行ってやるんだ。いつもどおりにしてないと、おかしくなっちゃいそうだし。

さんざん泣きまくったおかげか、全然涙も出てこないし、それなりには仕事もできるはずだ。


「…なんか、あったんだね、やっぱり」


……ですよね。

むしろ意気揚々と乗り込んだ、萩原コンサルティングコーポレーションにて。とうとう、無視できなくなったらしく、理央さんがぽつりと呟いたのだった。
へへっ。

笑ってごまかそうとするけど。

「ここで紹介してる以上、高林さんとのことは、報告義務があるでしょ。話して」

広げていた書類を、分類もしないで、がさっと一つにまとめ、脇に押しやってしまう理央さん。心なしか、悲しそうな顔をしているように見える。

有無を言わせない言い方を、わざと選んだのかな。わたしが話すしかなくなるように。


覚悟を決めて、昨日、玲音さんと大山さんと話したことを説明する。説明するためには、どうしても思い出さなきゃいけない。話しながら、泣いちゃうかなぁ、って思ったけど。

…涙も出ない。案外、わたしってしっかりしてるのかも。

でも、足が震える。雨の中、通勤してきたから、足が冷えた、ってことにしておこう。


「じゃあ、契約解除しましょうか」

理央さんがあっさりと言って初めて、ああ、そういうことになるんだ、って気がつく。


【契約解除の条件】
①3回は対面すること
②紹介者の詐称が判明した場合
③その他の非常時

理央さんが、開いたファイルの中を指し示す。


「高林さんの場合、全部あてはまるって言ってもいいくらいの状況ね。海空ちゃん、そんな酒癖の悪い男、あなたから捨てちゃえばいいの」
……ええっ!?


中性的な理央さんが、昼ドラみたいな台詞をけろりと吐く。

さ、酒癖の悪い男って、玲音さんのことだよね!?

わたしが、玲音さんを、す、捨てる!?


本人は、恋愛経験が豊富ではない、ということを、ときどきアピールしてくる癖に、やっぱり理央さんって、発言だけは過激。


…そういえば、結城晃一さんと契約を解除することになった時も、紗彩が本人に向かって「女癖の悪い男」って、啖呵切ってたっけ…。


やっぱり、どこか、ふたりは似ている。

でもなんだか、わたしの代わりに、そういう毒を吐いてくれているようにも見える。
酒癖の悪い男、かぁ…。

玲音さんは、酔ったからって、暴れるわけでも、人が嫌がることをするわけでもなかった。

いつもの恥ずかしがりなところがなりをひそめて、少し甘いことを言ってくれて。ただ、眠っちゃうだけだったのに。

無害な人だったと思う。だからこそ、お酒を飲んでいる玲音さんのところに、大山さんはわたしを呼んでくれたに違いないし。


なんだか、ボタンをかけ違えたみたい。

ささいなことがきっかけで、思い描いていた未来がずれてしまった感じしか、しない。


どうしてこんなことになったんだろう、って思うけど。


なんて酒癖の悪い男!!…って、責める気にはなれない。

「…とはいっても、事実がはっきりしない以上は、①しかあてはまらないか」

理央さんが、そう言うと、わたしの顔をじっと見つめてくる。


「事実が、はっきり、しないよね」


「…なにが、言いたいんですか、理央さん」


「高林さんは本当に早川さんと寝たのか。早川さんは本当に妊娠してるのか。なぜ、早川さんは沈黙を守るのか」

気になるよね、って理央さんはにっこりと綺麗に笑う。


「ただの好奇心ですか!」

思わずつっこむと、自然に笑えていた。「それもあるけど、海空ちゃんだって、『すっきりしない』って顔に書いてある」

ええ!なんて正直な顔なんだろ…、相変わらず。


「泣きたいのに泣けないとも、書いてあるよ」

「…昨日で十分泣いたんですけど」

理央さんは、見ていないようで、わたしのことを、よく見ているらしい。


「でも、今日は全然涙が出ないんですよね。『なんでこんなことになっちゃったんだろう』って、思うばかりで。もしかしたら、理央さんの言う通り、どんどん疑問の方が膨らんできちゃって泣けないのかも」

とにかく、現実が悲惨で、泣けてた。昨日までは。

玲音さんに会えないって言われたこと。玲音さんの苦しい気持ちを救ってあげられないこと。もう、立ち直れないって、思ってた。


「キーマンが、いるじゃない。全部、知っていそうな人物」


理央さんが、何でもないことのようにはっきり言い放つ。


「うん…」


そのことを全く考えなかったはずがない。でも、できるだけ考えないように努めてた。

だって、玲音さんにも、大山さんにも、何も話さない彼女に、どうしてわたしが近づくことができるだろう。
「海空ちゃんには、早川さんを問い詰める権利があると思うけど。彼女に『婚約者を寝とられた』んだから」

うわぁぁ!

「は?こ、こ、婚約者?ね、ね、ねと…」

そんな、テレビでしかお見かけしない、そんなドラマな状況、って思ったけど…。


あれ?…その通り、か?

わたしと玲音さんは、正式に婚約したわけじゃないけど、お互いに結婚する意思はあった。早川さんがどういうつもりだったかはわからないけど、玲音さんと寝たことが事実だとしたら。

「わたし、婚約者を寝とられたの!?」

理央さんは、おかしそうに笑っていた。
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