泣き顔の白猫

カプチーノの彼女


その日、加原雪人(かはらゆきと)が『喫茶りんご』の扉を開いたことに、特別な意味はなかった。

ようやく仕事から解放された夜十一時、職場から家までのそれほど長くもない道のりで、灯りが点いていたのがその店しかなかった、というだけの理由だ。

駅前まで出れば開いている店なんていくらでもあるのだろうが、そんな気分にはなれなかった。

その日の仕事中、自分の不注意から、手に怪我を負ってしまったのだ。
自分の歩く揺れでさえも響いて痛むような怪我だ、夜の飲食店の喧騒になんて耐えられそうもない。


そんな時、『りんご』の前を通りかかった。


喫茶店にしては珍しく、遅い時間まで店を開けているため、仕事帰りに何度か食事に立ち寄ったこともある。

シンプルな外装とは裏腹に渋いアメカジ調のインテリアで統一された店内には、ジャズや正統派ロックのBGMと、濃厚なコーヒーの香り。
メニューには、ケーキからオムライス、カレーや焼きそばまで揃っているという、嬉しい脈絡のなさ。

そしてそんなやりたい放題感とはかけ離れたような無口なマスターは、疲れた客にはとても過ごしやすい雰囲気を作ってくれる。

加原のような昼夜のない職種の人間には特に、非常に便利で入りやすい店だ。
もしかしたらそれを狙って、こんな辺鄙な場所に店を出しているのかもしれない。

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