隣人M

医者と女

ノックの音がした。男は書類にサインをしていたが、ペンを走らせる手を止めて、ドアの方を見やった。


約束の時間だ。―あいつは時間をきっちり守るからな。男は口元を歪めた。はっと息をのむほどの端正な顔に光が当たって陰影を作り、彼の顔をより彫り深く見せていた。男は、ゆっくりと慣れた口調で、まだ見ぬ訪問者に、ドア越しに声をかけた。

「どうぞ。開いているよ」


カシの木でできたドアが、重厚な音を立ててゆっくりと女の訪問者の姿を露にしていく。女は、まっすぐ男を見据えて中に入り、後ろ手でドアを閉めた。彼女はつかつかと男の前にやって来て、彼が差し出す書類を受け取り、さっと目を走らせてうなずいた。


「それでいいかい?」
「いいだろう。それでは、彼のことを頼む」
「うん。……まあ、そこにかけたまえ」


女は素直にソファに腰を沈め、長い脚を組んだ。そして、膝の上でさっきの書類を指ではじいたりしてもてあそんでいる。男はふと思い当たることがあって、彼女に尋ねた。


「暇な時にものをもてあそぶのは、君の癖なのかい?」
「まあな。……子どものころからだ」
「そうか。まだ抜けきらないのか……」
「言うな。もうそのことは忘れようとしている。お前のことも恨んではいない。だが、それ以上侮辱するならば……」


女はさっとピストルを取り出して、ぴたりと男に狙いをつけた。


「……殺す。いいか。私はお前のモルモットではない」


重く、暗い空気が流れた。物音ひとつしない。女は瞬きもしなかった。男はかすかに笑いを浮かべて、両手を小さく上げた。

「すまない。だが、あいつを救えるのは俺だけなんだぜ。忘れるなよ。君はあくまでも俺の助手だ。雇われているんだからな」
「克己は私が救ってみせる。いざとなればお前の助けなど……」


女はピストルを下ろし、銃身のラインを指でなぞった。彼女の目が切なげに伏せられる。男はせせら笑った。


「まあ、そう言っていられるのも今のうちだ。俺たちの契約は金ではなく、冷徹な利害関係のみで成り立っているんだからな」
「……分かっている」


女はゆっくり立ち上がって、書類にサインをして男の机に放り投げ、くるりと背を向けた。男はその背中に追い討ちをかけるように鋭く言った。


「俺は、ああいう活動をしていても、医者だ。しかし君は、どんな綺麗事を並べたとしても、殺し屋みたいなものだ」
「私は、命を奪うわけではない」
「ふん」


男は鼻で笑って、女の黒い服がぴっちり張り付いてくっきりと浮き上がった腰のラインを眺めた。そこにはピストルを収めたホルダーが下がっている。


「まだそんな古いピストルを使っているのか。君くらいのものじゃないか、そんなものを改造してまで使うなんて。修理をするのも一苦労だろう」
「……克己からもらったから」
「また始まった」


男は大きくため息をついて立ち上がった。女は見向きもしない。


「それがいけないんだ。いくら手術が不成功だったとはいえ……」
「黙れ。お前だって、その腕の傷は……」
「やめよう」


ゆっくり男は歩み出した。女は振り向かない。男は白衣のポケットから、鍵を取り出した。


「行くぞ。無意味な会話はもう終わりだ。俺たちの仕事の時間だ」

女は顔にかかる長い黒髪を、細くしなやかな指でさらりとはねのけて、男を見上げた。彼女も背が高いが、男はもっと高かった。女は苛立ったように、黒いブーツのヒールをカツカツと鳴らした。男は突然、女の肩を抱いた。彼女はすごい剣幕で彼の腕をはねのけ、ぎゅっと睨んだ。


「やめろ、椎名」
「……名前、覚えてくれたのかい」


椎名和馬はかすかに笑って、眼鏡をひょいと指で押し上げた。女はふん、と鼻を鳴らした。


「行こう、椎名」
「辛いものを見ることになるぞ」
「かまわない」

女の、意思の強そうな黒い眉がきっと寄せられた。


「私は仕事人だ」
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