「竹の春、竹の秋」

10.

 キスを繰り返しながら体重をかけて、薫はタクミをベッドに倒した。薫が重かったのか、あるいは、不意にずれた薫の唇が彼のどこかを刺激したのか、タクミは「んん」と喉で声を出した。ほんの短い声だったのに、その声は薫の腰を震わせる。もう一度、その声を聞きたくて、薫はタクミの肌に何度も唇をおしあてて、やがて息も絶え絶えになった薫が深呼吸をするように大きく息をつくと、タクミはその隙を待ち構えたように、体を反転して薫を組み伏せた。

 「名前を…」
 そう言ったタクミの声は掠れて、語尾はほとんど聞き取れないほど小さかった。
 「呼んでしまうかもしれない…」
 「うん」
 
 薫ではない誰かの名前を。そう、確かめることなど、野暮だと思った。今、タクミが抱こうとしている男は自分ではなく、タクミが愛してやまない誰かに似た男なのだと、薫は分かっていて抱かれる。どうしてそんな風にこの男を受け止めようとしているのか自分でも分からない覚悟が、タクミに通じる訳もない。だから、タクミは誠実さに包まれた残酷な言葉をまた紡ごうとするのだった。

 「君の、じゃなく」
 ”て”、と、言いかけたタクミの唇にそっと、指を寄せた。
 これ以上傷をえぐるような誠実さを、薫はタクミに求めてなどいない。たった一晩の相手だと割り切っているのだから、と、それでも、そこまで言い切ることもできない自分を守るように薫はタクミの優しさにすがってその言葉を言わせなかった。
 「もう、言わないで。」
 そして、「ほんとに、いいんだよ。」 ── そう、言いかけて止める。それが薫の心の底から出た言葉であったにせよ、タクミを慰めることもないと知っていた。ただ、その指先でそっと、ひとつの恋を手放したと告げる唇を撫ぜた。手放してしまう恋を、せめて一晩、自分のものであったと確かめる為の、その行為の中で、やがて自分は似ている誰かとしてタクミの目に映るのであろう。でも、今、タクミの目が映しているその瞳の中にいる人物は、まだ自分なのだという気がした。タクミは、薫の目の中に、自分の恋の来し方を探しているのだろうか。じっと、深い井戸を探るように、それからそっと目を閉じて、半開きになったままの唇をさらに開けた。
 薫はそっとその虚(うろ)に指を入れてみる。タクミは目を閉じたままちゅっと薫の指を吸った。それからタクミはゆっくりと目を開いた。目があった。薫は指を抜いてそっと頬を挟んだ。タクミの唇が薫の首へ落ちる。タクミの表情(かお)は、もう見えない。薫はタクミの髪を指で梳いて「もっと、もっと」と指の先から彼の唇をねだったけれど、それが、自分のためなのか、タクミのためなのか分からなかった。
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