碧い人魚の海

 08 貴婦人とブランコ乗り

08 貴婦人とブランコ乗り


 最後の一切れを飲み下すまでに、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。
 天窓から差し込む薄明りは徐々に色を深くしていき、やがて窓の向こう側の微かな光は消えた。ガラスは深い闇色へと変化したあと、あたりの闇と溶け合って見えなくなった。
 テーブルに置かれたランプの明かりだけが、ゆらゆらとあたりを照らし出す。

 ルビーが魚を口に運んでいる間、貴婦人は沈黙したまま待っていて、水差しからコップに2度水を注(そそ)いだ。
 ルビーも無言だった。途中何度も喉をつまらせそうになり、水を飲んでは食べ続けた。
 ルビーは一度もすすり泣いたり、しゃくり上げたりすることなく、黙って食事を続けた。ただ、涙だけがその瞳から静かに溢れ、音もなく流れ続けた。

 使い終えたナイフとフォークを皿の上に揃えて置くと、ルビーはやっと目を閉じた。
 夜の海の底のような暗い部屋の中で、そっと揺り椅子にもたれると、人魚は自分の身体の内側に静かな力がみなぎるのを再び感じた。

 アンクレットの魔力は強力で、アシュレイから流れ込んできた魔法は結局、アンクレットを砕くには至らなかった。けれども今、変身に対する呪縛は完全に解けていた。
 ルビーの赤い尻尾は、椅子の足元ですんなりとした2本の脚に形を変えていく。いまや血の色をしたアンクレットは、つなぎ目の見えないまま円周を変えて、ルビーの左の足首をくるりと囲んでいた。
 裸足のままのその脚で、ルビーは立ち上がった。

 目の前のベールをかぶった貴婦人に──その中にさっきからちらちらと重なって見える人魚の長老に──向けて、ルビーは問いかけた。

「教えてください、お姉さま。あたしのしたことは、間違っていたの? あたしは自分が人間に捕まっても、アシュレイには逃げてほしかったの。素敵な背びれを立てて、海の中を悠々と泳いでいてほしかったの。それだけなの。なのに、アシュレイがあたしに同じことを願っていたことを、どうしてあたしはこんなに悲しくて、辛くて、やりきれないことのように思ってしまうの?」

 人魚は海の底の泡から生まれてくる。だから何百年生きたのかをだれも知らない長老のことも、他の年上の人魚たちを呼ぶのと同じように、ルビーはお姉さまと呼んでいた。
「お姉さま答えて。あたしがアシュレイに願っていたことは、ひどいことだったの?」
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