マネー・ドール

(3)

 次の日、杉本に謝りに行くことにした。杉本との約束は、もうこれ以上守れない。
あの社宅にまだいるんだろうか。いなければいないでいい。どっちか言うなら、いないほうがいい。
 六年ぶりの杉本の社宅は、外壁が新しくなっていた。ドアの横には『杉本』とテプラシールが貼られた、ネームプレート。残念ながら、杉本はまだこの部屋にいた。チャイムを押すと、はーい、と女の声がして、地味な女が出てきた。どことなく、ここに住んでいた頃の門田真純に似ている。

「どちら様?」
「佐倉と申します。杉本くん、いらっしゃいますか」
女は、はあ、と言って、奥へ入って行った。カノジョ、かな?
「おお! 佐倉! 久しぶりやの!」
六年ぶりの杉本は、ヤンチャ感は抜けていたけど、相変わらずのバキバキの体で、上下黒にゴールドのロゴの入ったアディダスのジャージで出てきた。
「久しぶり。ごめんね、突然」
「ほんまに、びっくりしたわ。まぁ、あがれよ」
外壁は変わっていたけど、中は全く変わっていなくて、ただ、六年前よりは家具が増えて、エアコンもついてて、テレビも大きくなっていた。
 セックス部屋に通され、あのコタツを囲んだ。女がコーヒーを出してくれて、杉本が言った。
「嫁さん。聡子や」
「はじめまして」
聡子さんはにっこりと笑って、俺に頭を下げた。笑った顔は、本当に門田真純そっくりで、俺は思わず目をそらしてしまった。
「こんにちは」
気まずそうに頭を下げた俺を見て、聡子さんは、ちょっと買い物行ってくるね、と出て行った。
「結婚、したんだ」
「ああ、今年の初めにな」
俺は出された、おそらくインスタントコーヒーを飲んだ。杉本はあのタンスにもたれて、タバコに火をつけた。
「真純と、まだ一緒か」
「ああ」
「そうか。元気か」
「……元気だよ」
言いたかった。真純とはもう無理だって。謝りたい。悪かったって。
俺は、もしまだ杉本が一人で、まだ真純のことを思ってるなら、真純を迎えに行ってくれって、頼むつもりだった。でも、杉本は門田真純によく似た女とすでに結婚していて、その女はなんかいい人そうで、俺はもう、言えるわけがなくなっていた。
「似とろうが、真純と」
「ああ、そうだね」
「真純と別れてからな、なかなか整理がつかんで……荒れとった時に、中村が紹介してくれたんよ」
中村! ああ、そういえば……あれきり、連絡もしてないな。
「中村と、連絡してんだ」
「今でも時々おうとるよ。ええ奴じゃけ、あいつ」
確かに、中村はいい奴だ。
俺は、ちょっと嫉妬した。元は俺と中村だったのに、いつの間にか俺は外されていた。って、当たり前か。
「中村、今どうしてんの」
「親父さんの会社で働いとる。聡子は、そこの事務員や」
「そうなんだ」
「最初はな、真純と顔が似とるってだけで付き合いよったけど、ええヤツでな。素直で、優しくて……考えとることがわかる」
「考えてること?」
「真純は、わからんじゃろ。何考えとるんか」
確かに……俺はあいつの気持ちとか頭ん中とか、まったくわからない。
「佐倉、悪かったな」
「え?」
「あん時はな、真純んこと手放すのが辛うて、お前に背負わせてしもうて……」
そんな……今更……
「あの女は、背負うには重すぎる」
ここで……ここで、重いからもう下ろすって、言えよ。俺、言え! 今言わないと、もう一生言えないぞ!
「でも……真純のこと、好きだったんだろ」
「好きじゃった。本気で、死ぬほど……じゃけんど、どっかな……重かった。あいつとおるとな、しんどかった」
ほら、今だ! 今しかない! 俺もしんどいって、もう嫌だって言えよ!
「あのさぁ、杉本……俺さ……」
杉本はふと、俺の左手を見た。
「結婚、したんか?」
しまった! 指輪……指輪してたんだ……
「あ、ああ……」
「そうかぁ! 結婚したんかあ! いやぁ、よかった! 真純も、幸せになれたんじゃなあ!」
いや、そうじゃなくて……
「杉本、俺、お前から真純のこと……奪ったのがずっと……」
「ええんじゃ。そんなこと、もうええ」
そして杉本は、衝撃的発言をする。
「どのみちな……俺と真純は一緒にはなれんかった」
「な、なんで?」
「なれん、というより、なったらいけなんだ」
「どういう、意味だよ」
「たぶん、じゃけどな……俺と真純は……兄妹かもしれん」
な、な、な、な、なんだそれ!
「意味、わかんねえ」
「真純の母ちゃん、男にだらしないゆうたやろ」
「あ、ああ……」
「田舎でな、若い男と女なんか数が知れとる」
「いや、だからって……」
「なんとなくな、そんな気がしとった、ずっと。俺の親父と真純の母ちゃんは、関係があった。それは間違いない」
タンスにもたれて、淡々と話す杉本が遠くに見える。俺は何て言えばいいのかわからなくて、とにかく安物のマグカップに入った、冷めかけたインスタントコーヒーを飲んだ。
「わからんけどな。もう、誰もわからんじゃろ。真純の母ちゃんでさえ、わからんと思う」
「それ……知ってて、真純と……」
「そうじゃな。それでも、真純が好きやった。いや、だから余計やったんかもしれん。余計に真純のこと、誰にも渡しとうなかった」
目眩がする。もう、何がなんだかわからない。俺にとって、杉本は最後の免罪符だった。杉本に申し訳ないって理由で、真純と別れる言い訳ができたはずだった。
「逆に、感謝しとる。真純を離してくれて」
感謝……感謝って……
「そのこと、真純は……」
「さあなぁ。もしかしたら、わかっとるかもしれんけど……真純は母親のこと、心の底から嫌っとるけ……そんな話、したこともない。なあ、佐倉。真純はワガママで、ようわからんとこがあるけど、性根は、優しくて、素直で、かわいい女なんじゃ。広島で、いろんなことがあって、あいつは変わってしもうた。東京に来て、さらに変わってしもうた。でも、ほんまは……もう、思い出じゃけどな」
杉本は遠い目でベランダを見た。
何を、見たんだろう。過去なのか、真純なのか……聡子さんなのか……
「飯も、上手いじゃろ?」
「え? ああ、そうだね」
「聡子はな、あんまり上手ない」
杉本は小声で言って、内緒じゃ、と笑った。
「もうすぐ、引っ越すんじゃ」
「そうなんだ。どこに?」
「埼玉。転勤になってな」
「へえ、そうなんだ」
「工場の、責任者にな」
「出世したんだ!」
「本社に戻ってこれるかどうかわからんけど、まあ、今よりは給料もようなるし」
「そうかぁ。おめでとう。頑張れよ」
「佐倉は、何しとるんや」
「俺は……」
俺は、親父のコネで入った会計事務所の見習いのペーペーで、安月給で、嫁さんに逃げられた、完全な負け犬。自力で生きてる杉本が、とてつもなく大人で、立派で、俺は情けなかった。
「サラリーマン。普通の」
「そうか。お互い、嫁さん食わせていかんといけんし、がんばらんとな」
そうだ……そうなんだよ。俺は、真純を食わせていかないといけなかったんだよ。もしかしたら、この先、本当に妊娠して、子供が産まれるかもしれない。こんなフラフラしてたら、ダメなんだよ。
「そうだな。引越したら、住所教えてくれよ。遊びに行くから」
俺は電話番号を書いたメモを渡した。たぶん、かかってくることはない。杉本は、完全に真純と別れた。兄妹とかいう話も、本当かどうかわからない。杉本の作り話かもしれない。確実なのは、杉本は聡子さんと新しい生活を始めていて、屈託のない幸せを掴んでいて、真純のような面倒な女のことはもう忘れてよくなって、俺は、真純から逃れられないということだけ。
 聡子さんが帰って来て、よかったら夕飯でも、と言ってくれたけど、俺は帰ることにした。
「真純が待ってるから」
バカバカしい嘘をついて、俺は笑顔で杉本の部屋を出た。駐車場でベンツに乗る俺を、杉本と聡子さんが、あの窓から笑顔で見送ってくれて、二人は手を振ってくれた。
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