想い出は珈琲の薫りとともに
10.dieci-2 (薫 side)
「聞いてください。薫さん」

 珍しく亜夜が弾んだ声で言ったのは、七月も終わりに近い日曜日だった。

 来月末には風香も一歳。最近は一人で立ち上がり、一歩踏み出そうとするがなかなかその一歩が出ないようだ。私がいつもヒヤヒヤしながらそばに付くと、亜夜に『薫さんは心配症ですね』といつも笑われてしまう。
 そんな風香を私が公園に連れて行っているあいだ、亜夜は家事をしてくれる。帰ってきて昼食を取ったあとしばらくすると風香は昼寝に入る。休みの日はだいたいこんな風に過ごしている。
 
 そして束の間の二人だけの穏やかな時間が訪れる。

「嬉しそうだね。何か良いことがあったのかい?」

 ソファの隣で寄り添うように座る亜夜に微笑みかけた。

「はい。実は……」

 そう切り出すと、亜夜は最近訪れた客の話をし始めた。
 自分の祖父くらいの年齢だと思われる客が、亡くなった妻との思い出のコーヒーを求め来店し、喜んでいただけた。そんな話を、亜夜は本当に嬉しそうに語ってくれた。

 まだ私たちは一緒に暮らし始めて一月ほど。お互いのことをほとんど知らない状態での生活は、さぞかし緊張したことだろう。だがそれも少しずつ解れ、亜夜はありのままの表情を見せてくれるようになった。
 それを見ているだけで愛しさが湧き上がる。こんな感情を自分が持ち合わせていたことに驚いたが。そして、同じように風香に対しても、亜夜への感情とはまた違う愛おしさがあった。
 自分の子など想像もしたことがなかった。いつかは結婚し、子をもうけなければならない。義務のような気持ちしかなかった。
 だが実際に風香といると、自分が父親であるという実感より先に、ただただ大切にしたいと思う気持ちが大きくなった。

「薫さん? 聞いてますか?」

 話を聞きながらそんなことを考えていたからか、少し頰を膨らませて亜夜は私を見上げた。

「もちろん、聞いているよ」

 自然に笑みが溢れる。自分は笑えない人間だと思っていたのに。少し唇から息を漏らすと亜夜を引き寄せる。そして溢れる感情のままに唇をそっと重ねた。
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