想い出は珈琲の薫りとともに
14.quattordici
 ずっと続くんじゃないかと思うくらい長かった夏も、太陽が日差しを和らげると秋に向かっていく。
 その気配が深まり始めた十月中旬、私は二十七才の誕生日を迎えた。
 その日は日曜日。晴天が予想された行楽日和の前日から、私たち家族は自分の実家を訪れた。
 風香は初めて会う母にもすぐに慣れ、母はとても喜んでくれた。風香もまた、人懐こい笑顔を振り撒き場を和ませた。

 父はもう家にはいない。
 あの契約を交わしたあと、淡々と手続きは進んだ。すぐに町外れの小さなアパートを見つけると、最低限の荷物だけ持って家を出たらしい。受け取ったお金の大半を置いて。母は人伝てに、運送の仕事をしながら暮らしていると聞いているようだ。
 父が何をどう思っているのかはわからない。私たちの関係が修復する日がくるのかも。でも、父は父なりに自分を見つめ直す時間が必要なのだと思う。だから母は、しばらくそっとしておくと言っていた。

 それから十日が経った今日。天候だけが心配の種だったが、私たちを祝福してくれるように小春日和の穏やかな日になった。

 見慣れたホテルプリマヴェーラのロビー。いつ来ても非日常を味わえる空間で待ってくれていたのは母と朝陽だった。
 私の顔を見るなり、朝陽は興奮気味に口を開いた。

「姉ちゃん、すげぇ。こんなところで結婚式するなんて! それに、薫義兄(にい)さんの店ってあれだろ? めちゃ人並んでる!」

 いつのまにか朝陽は薫さんのことをそう呼ぶようになっていた。自分が学んでいることに精通している薫さんと話は合うようだ。この前も二人は熱く語り合っていた。

「朝陽。子どもみたいにはしゃがないのよ? 今日はアルテミスも席数減らしてるから余計かも。ちょっと申し訳ないんだけど……」

 数週間前から店先には告知されていたけれど、それを知らず訪れる人もたくさんいただろう。今日の午後の、一番いい時間帯。テラス席は使用できないのだ。

「風香ちゃんはもうそろそろ眠いのかしら?」

 ベビーカーに乗せた風香が目を擦っているのに気づいたのか母が言う。

「いつもそろそろお昼寝の時間なの。ごめんね、お母さん。預かってもらっちゃって」

「いいのよ。可愛い寝顔を見られるなんて幸せだわ」

 今から別の場所で用意に入る私は、風香をしばらく母に見てもらうことにした。母はもう半分目を閉じている風香を慈しむような眼差しを向けていた。

「じゃあ、行ってくるね」

 その場で別れ、私はホテルの中に向かった。
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