もしも明日、この世界が終わるなら

逃避行


 それから、どれくらい走っただろう。
 閑静な街の中に、ふたり分の荒い息だけが溶けていく。
 
「はる……た……春太、待って」
 花乃のか細い声に、僕はようやく我に返る。
「ご、ごめん……」
 
 ハッとして手を離し、振り返ると、花乃は肩で息をしていた。かなり無理をさせてしまったようだ。僕はもう一度ごめん、と謝り、手を離した。
 花乃は両手を膝につき、苦しげに呼吸を繰り返している。
 
 そういえば、この子は普通ではないのだった。走らせてしまって、大丈夫だっただろうか。冷静になった途端、不安が大きくなってくる。

「花乃、体調、大丈夫?」
「うん……少し、休めば大丈夫だと思う……」

 あまり、大丈夫そうではない。僕は、なにかいいものはないかと周囲を見回した。
 すると、
「……あ」
「なに?」
 視線の先の民家に、自転車が置いてあった。
「花乃、自転車だ! 乗れる?」
 花乃は申し訳なさそうに俯いた。
「……ごめん、乗ったことない」
「じゃあ、僕が運転するから後ろに乗って」
 自転車なら、きっと花乃も疲れない。言うやいなや、僕は民家から自転車を拝借しに向かう。

 しかし、歩き出そうとした僕を、花乃が止めた。突然腕を掴まれ、驚いて振り返る。
「待って」
「なに?」
「……ダメだよ。春太はもう戻らないと」
「でも……」

 荒い息を繰り返す花乃を見つめる。

 戻ったらきみはどうなるの、と視線で訴える。すると花乃は察したように微笑んで言った。
「わたしのことはいいから、行って」
 それはとても、痛々しい笑みだった。
 
「いやだ」
 駄々をこねる子どものように拒むと、花乃は弱々しい声で言った。
「ねぇ、春太。死ぬって、怖いことだよ。簡単に死ぬなんてダメだよ、絶対」
 
 それはそうだ。
 僕は瓶をぎゅっと抱き締めた。
「僕だって、本当は死にたいわけじゃないよ。でも……生きるイメージが湧かないんだ」

 ひとりで、まったく知らない場所で生きていくイメージが。空港は、搭乗口は、恐怖しか湧かなかった。

「大丈夫。きっと大丈夫だよ」
 花乃は何度も、大丈夫だよと僕に囁いた。
 
 きっと、自分だってかなり不安だろうに。
 その証拠に、花乃の手は小刻みに震えている。その手をとる。離したくない、と強く思った。
 
「……花乃は自衛隊と会いたくないんだろ?」
「……それは……」
「理由は……まぁ、この際いいけどさ。花乃はこのまま、アイツらに捕まりたいの? 嫌なの? どうなの。言ってよ」
 少し、強めに尋ねる。すると花乃は俯き、小さく「うん」と頷いた。

 それならもう、答えは出ている。
 花乃の手を一度離し、もう一度しっかりと握り直す。

「……ねぇ。遠足、行く?」
「へ……?」

 花乃がきょとんとした顔で僕を見上げた。黒々とした黒曜石(こくようせき)のような瞳には、僕が写っている。それがなんだか、とても嬉しかった。

「そう。しかもなにを隠そう、修学旅行込みの遠足だよ」
「修学旅行込みの……遠足?」
 
 あそこに行くなら、たぶん僕たちの足では一日以上かけないと辿り着かない。
 そして僕は、場違いな言葉を口にした。
 
「今から、メロディランドに行かない?」
「メロディランド……?」
「そう」
 花乃がハッとしたように目を見開く。
「そ、それってあの、世界で有名なアドベンチャーランド?」
「うん、そう」
「手を挙げて、きゃーって叫ぶの! それからカチューシャをつけて、着ぐるみと写真を撮って、美味しいものを食べながら園内を散策して回る、あの!?」
「そうだよ」
 まるで、おもちゃにはしゃぐ子どものように、花乃が声を弾ませる。
「行きたい!」
 
 よし、行先は決まった。僕は自転車を取ってくると、ハンドルを持ちサドルにまたがって、花乃を振り返る。
「うしろ、乗って」
「う、うしろ?」

 花乃は困惑しながら、自分が乗れるであろう場所を見つけると、僕に掴まった。ぎゅっと不安そうに僕の服を掴む手が、あたたかくて、小さくて、どうしようもなく愛おしい。
 
「……ねぇ、春太は行ったことあるの? メロディランド」
 少しだけ答えるのが申し訳なくなったけれど、僕は正直に言った。
「学校の遠足でね。でも、一回だけだよ」
「楽しかった?」
「……うん、まぁ」

 正直、アトラクション待ちで並んでいる時間が多過ぎて、いらいらした記憶しかない。
 ……でも。
 今思えば、あの頃はなんでも楽しかった気がする。なにも欠けたもののない、過不足のない毎日だった。

 母親の小言も、姉のわがままも、なにもかもが当たり前過ぎて、その大切さに僕はまったく気づかなかった。


 * * *


 自転車はただひたすら音のない砂に埋もれた街を、道路を、まっすぐに進んだ。

 風が頬を撫でて通り過ぎていく。背中に当たる花乃の体温はときおり僕の胸を掻き乱した。
 
 明日になったら、きっともうこの国には僕たちしかいない。改めて僕たちは、もう戻れない場所に立っているのだな、と思った。
 
 そう思うと、にやりと笑いが込み上げた。
「ねぇ、今気づいたんだけどさ」
「うん?」
「今ここに僕たちしかいないってことは、メロディランドに行ったら、遊び放題ってことじゃない?」
「……なんか、わくわくしてきたね!」

 こうして僕らの、小さな、幼い逃避行ははじまったのである。


 * * *


 百キロほど離れたメロディランドを目指す道すがら、僕たちは何度かコンビニやスーパーに寄って、賞味期限が切れていないお菓子やパンを拝借した。

 これまでの社会だったら、僕たちの行為は完全にルール違反だけど、もう終末だからそんなことはどうだっていい。
 むしろ、逆に興奮した。

 陽が落ちてきた。自転車のライトがぽっと点灯して、前を照らす。
 しばらくそのまま走っていると、黙って僕のお腹にぎゅっと手を回していた花乃が空を見上げる仕草をした。

「……大丈夫。ヘリの音はしないし、人気もないよ。大丈夫」
「……うん」
 お腹に回された手は驚くほど小さくて、僕は少しだけ泣きそうになった。 
 暗くなってきたから、不安に思ったのかもしれない。
 
 冷えてきたし、さすがにこのまま夜通し走るわけにもいかない。そろそろ休憩しようと、僕は周辺を見回した。
 
「どうしたの?」
「泊まるところ、あるかなって」
「あぁ……そっか」
「もうすぐ下に降りられるみたいだから、この辺にあれば助かるんだけどさ」

 高速道路の降り場が近付いてきている。
 花乃はきょろきょろと周りを見て、あっと声を上げた。
「あそこは?」
 花乃が指さしたのは、少し古ぼけたラブホテルだった。
 
 僕は一瞬言葉を失ったけど、たぶん彼女はあのホテルがどういうものだか分かっていないで言ったのだろう。平静を装って、すぐに口を開く。

「……そうだね。あそこにしよっか」 
 
 僕たちはホテルに入るため、一度高速道路を降りた。
 
 鍵は閉められていたので、申し訳ないけど窓ガラスを割って中に入った。フロントを漁って鍵を見つけて、番号の部屋に入る。
 扉を閉めて鍵をすると、無意識に大きなため息が出た。
 自分でも気づかなかったけれど、どうやら相当気が張っていたようだ。
 
「春太、大丈夫? 疲れた?」
 僕にならってしゃがみ込んだ花乃が、心配そうに見つめてきた。
 場所も場所なので、僕はついどきりと肩を揺らした。
 
「う、うん。……大丈夫だよ。とりあえず、今日はここに泊まろ」
「うん」 
 
 花乃はぱたぱたと小さな足音を鳴らして、部屋を散策する。
 外観は古びていたが、内装は思いのほか真新しかった。
 大きなテレビ、ダブルベッド、ガラス張りのお風呂、全部が新鮮なのか、花乃の目はきらきらとしていた。

 確認したところ、電気や水道は通っていた。この国は、つい数ヶ月前となにも変わらない。変わってしまったのは、ただ生き物がいなくなったということだけだ。
 
 お風呂は交代で入ることにした。花乃は、お風呂に入りながらもなにかに感激したようにときおりきゃらきゃらと笑っていた。

 花乃がお風呂から上がり、続いて僕が入る。
 さっと湯船に浸かってお風呂から上がると、花乃の姿がなかった。
「……花乃?」
 ハッとする。もしや。
 追っ手に捕まったのか、それとも、それとも……。

「花乃! 花乃!!」

 部屋の中を探して、いないと分かると部屋の外へ出た。入ったときに閉めたはずの鍵は、開いていた。つまり花乃は、外に出たということだ。
「花乃!」
 
 バスローブのままであることも忘れて廊下を走っていると、べつの部屋から花乃が顔を出した。
「春太?」
 花乃は黒いリュックを両手に抱え、部屋から出てきた。
「花乃……」
 ホッとして、僕は思わずその場にへなへなと座り込んだ。
「あぁ、もう……よかった」
 いきなりいなくなったら、びっくりするではないか。
 
 ゆっくり立ち上がって、僕も花乃の元へ行く。
「なにしてたの?」
「春太、見てみて!」
 花乃は少し興奮気味にリュックを差し出してきた。
「なに? これ」
「中! 中見てみて!」
「中……?」
 言われるまま、中を覗く。
 ――と。
 
「みゃあ」
「うわぁっ!?」
 中から毛むくじゃらが飛び出してきた。べたっと僕の顔に張り付いて離れない。
「な、なに!?」
「あははっ! 春太の顔面白ーい!」
「おい……」

 顔に張り付いた毛むくじゃらをひっぺがしてよく見ると、それは小さな黒猫だった。瞳は深い海色で、少し痩せているが、元気だ。
 
「この子、この中にいた! もふもふ、可愛い」
 花乃は仔猫を抱き上げ、ぎゅっとしている。
「……僕たち以外にも、生きてるやついたんだな」
 てっきりもう、みんな砂になったのかと思っていた。
 
「ねぇ、この子も連れてこうよ!」と、花乃が言う。
「え、でも……」
「だって、ひとりぼっちで置いていくの、可哀想だよ」
「……まぁ、それもそうだね」
 そうしようか、というと、花乃はとても嬉しそうに笑った。
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