仙女の花嫁修行
12.銅鏡

 絹で出来た寝具をこんなに洗っても良いのだろうか。
 樽にためた水に敷布を浸して、軽く揺らしながら丁寧に撫でて汚れを落とす。

 こうやって早朝に颯懔の部屋の寝具を引き剥がして洗うのが、私の最近の日課になってきた。

 だってこんなの、人になんて洗わせられない。

 特にこの屋敷には男の使用人しかいないので、尚更に任せたくない。情事の後だとバレバレの寝具など恥ずかし過ぎる。


 兄弟子の天宇は私と颯懔が婚約している事を、蟠桃会の後広まった噂で知ったようだ。
 讙退治から帰って来ると質問攻めに合い、さらに私がこうやって寝具を洗う姿を生あたたかい目で見てくる。使用人の人たちから送られる視線もかなり痛い。

「こんなもんかな」

 軽い力で布地を絞り、木と木の間に渡してあるロープに掛けて皺を伸ばしていると、荷物を手にした颯懔がやって来た。

「どこかへお出かけですか?」

「ああ、暫く俗世へ降りようかと思ってな。ここに連れてきた者たちが随分と高齢になってしまったから、人材探しだ」

「そういう事でしたか」

 颯懔の屋敷にいる人達のほとんどが高齢者だ。50年もの間俗世にいた颯懔の屋敷には、その前に連れてこられた人が多い。居ない間に亡くなってしまった人も多く、代わりに天宇や奥さんが連れてきた人達を住まわせていたらいしのだけれど、颯懔自らも新たな人材探しに行くという事か。

 世の中には今日、明日、食べる物に困っている人や、奴隷となって酷い扱いを受けながら生きている人が五万といる。助けられるのなら助けてあげたい。

「私も急いで支度してきます。ちょっと待っていて下さい」

 外出の予定は聞いていなかったので何も用意していない。慌てて屋敷の中へと戻ろうとすると静止された。

「明明はここへ残っていて良い。あんまりここを天宇に任せっきりにすると、いよいよ不貞腐れるかもしれん」

「あはは、そうですね」

 颯懔が逃亡生活から帰ってきた時に天宇は、かなり恨めしそうに不満をたれていた。

 洞には自分の門下生達を住まわせて、さらにその門下生達が連れて来たただの人達を使用人として住まわせて……と通常は大所帯になるし、山一つが町のように形成されるのだけれど、颯懔には私の他に天宇しか弟子がいない。
 颯懔の洞は常に人手不足だ。

「ひと月かふた月か……いつ帰って来られるかは分からぬが宜しく頼む」

「はい、こちらの事はお任せ下さい!」

 ポンっと自分の胸を叩いてみせると、耳元まで颯懔の顔が降りてきた。

「帰ってきたらたっぷりと精気を補充させて貰うから、そのつもりで」

「――――!」

 口をパクパクさせて言葉を失っているうちに、唇を宛てがわれた。

「んぅ……」

 この感触ともしばらくお別れだと思うと、急に寂しくなってくる。
 恋煩いと言うのは恐ろしいもので、気分の浮き沈みが激しくて困ったものだ。

「そんな顔をされると連れて行きたくなるな」

「えーと……」

 一緒に連れて行って欲しいと言っちゃおうか。

 迷ったところで背後からコホンっと咳払いする声が聞こえた。

「ししょー、明明を連れて行かないで下さいよ」

「分かっておる。それでは天宇、明明、しばらく頼んだ」


 ピイィーーっと指笛で金烏を呼んだ颯懔は、あっという間に見えなくなってしまった。

「まさかあの超絶女嫌いの颯懔様をここまで変えるとは。明明はどんな術を使ったんだ?」

「しっ、知りませんっ!!」

 くつくつと笑ってからかう兄弟子から逃げるように、屋敷の中へと入っていった。


◇◇◇


 颯懔が行ってしまってからふた月以上が経っている。


 ――いない、か。


 金烏に捕まった颯懔が見えないかと、時折空を仰いでしまう。
 そうやってついた溜息はこれで何回目なのか。ただ待つだけという時間は、こんなにも長いものなのかとおどろかされる。

 見上げた空の向こう側は黒い雲があった。雨が降りそうだ。カゴに広げて干していた薬草を中へしまおうと庭を歩いていると女性が一人、門から入ってやって来るのが見えた。

「こんにちは、明明」

「可馨様!」

 ニコリと笑った可馨は、やはり花のように愛らしい。

「師匠に御用でしょうか。それなら師匠は今……」

「俗世へ降りているのでしょ? 俊豪から聞いたわ」

 俊豪と紅花とは時々会っている。俊豪と2人きりで会おうとすると颯懔が物凄く不機嫌になるので、紅花も一緒に居てくれることが多い。最初は紅花を毛嫌いしていた俊豪も今では柔和な態度をとってくれて、友だちと友だちが仲良くなってくれるのは嬉しいものだ。

 立ち話をさせるのもなんなので、客間へ入ってお茶を用意する。
 たしか可馨の御屋敷にお邪魔していた時、茉莉花で香り付けした花茶をよく飲んでいたっけ。
 湯を注ぐと途端に華やかで濃厚な花の香りが広がる。出来上がったお茶を一口飲むと、可馨は卓の上に置いていた布包みを私の方へと置いた。

「今日はね、明明にこれを渡したくて来たのよ」

 差し出された包みを受け取って中を見ると、布に包まれたカゴの中には干し肉が入っていた。

「これって……」

「讙の肉よ。讙退治のお裾分けをまだしていなかったと思って。良ければ受け取ってちょうだい」

「良いんですか?」

「もちろんよ。一緒に退治して捕らえたんだもの。貰う権利があるわ」

「ありがとうございます。有難く頂戴致します」

 讙の肉を入れた黄疸の治療薬はまだ作った事がない。後で天宇に聞いて作ってみよう。

 浮き浮きしている私とは対照的に、可馨は黙って茶杯を見ている。なんて話しかけようかと迷っているうちに可馨から口を開いた。

「颯懔とは……上手くいっている、わよね」

「……はい」

 触れたらハラりと崩れ落ちてしまいそうに儚げな笑顔。
 颯懔は蟠桃会のあの夜、可馨との仲は終わったと言っていた。どんな会話がされたのかまでは知らないし聞けない。円満に終わったのだと信じたいけれど。

「最初に聞いた時には驚いたけれど、でも納得だわ。貴女の様に明るくて素直な子なら颯懔も惚れてしまうわね」

 ふふっと笑ってもう一度、茉莉花茶を飲んでいる。

「ねえ明明。颯懔を早く真人にしてあげたいと思わない?」

「え……。は、はい。それはもちろん」


 房中術は陽と陰の気を交換するからこそ効果がある。
 毎晩のように膨大な量の陽の気を貰うのだけれど、私の中にある陰の気はほとんど全部取られてすっからかんだ。一方颯懔が持つ陽の気に対して、私が渡す陰の気などでは全然足りない。

 本来なら同じくらいの力を持つ者同士でするのが効果的な術なのに、私と颯懔ではバランスが悪すぎる。

 それを分かっていても颯懔は私を選んでくれた。
 
 早く力をつけたいしその為の修行も日々積んではいるけれど、あっと驚くような成果などすぐにあげられるわけもなく。焦る気持ちを宥めながら過ごしている。

 まるで私の気持ちを汲み取るように瞳を覗き込んできた可馨は、笑みを深くして更に続けて話しはじめる。

「私ね、いい修行方法を知っているの」

「いい修行方法、ですか?」

「ええ。とても効率的で効果も素晴らしいのだけれど、危険が伴うからとあまり使われていないの。でもやってみる価値はあると思うわ。どうかしら。気になる?」

「それはもちろん気になりますけど……。それは一体どんな修行方法なのですか?」

「これを使うのよ」

 可馨はもう1つ持ってきていた布包みを解いて中を見せた。

「銅鏡?」

 円形の銅鏡には葡萄唐草が一面びっしりと緻密に描かれ、他にも獅子や孔雀が生き生きと浮き彫りになっている。惚れ惚れするような見事な造りだけれど、鏡面は曇ってしまって全然姿を写してくれない。

「この鏡を見ながら三度、神通力を流し込んで布で擦るの。たったそれだけよ」

 それだけで何が修行になるんだろう?

「さあ、神通力を流し込んでみて。そして擦ってご覧なさい」

 目上の人から言われたら、どうしてこうも簡単に人は従ってしまうのか。よく考えもせずに渡された布を反射的に受け取って、鏡面へとあてた。

 一回、二回、三回……。

 たった三回布で擦ったくらいじゃ、この曇りは取れないと思うけどなぁ。

 不思議に思いつつも鏡を見ていると、体の内側から何かにグイッと引っ張られるような感覚がした。驚いて小さく悲鳴を上げると、目の前に座っている可馨が不思議そうな顔をしている。

「どうしたの、明明。その鏡、気に入らなかったかしら?」

「鏡……? いえ、素敵です」

 見ると手には銅鏡が。
 
 えーと、何で銅鏡なんて貰ったんだっけ?
 よく思い出せない。

「気に入って貰えたのなら良かったわ。それで明明ももっと女を磨いてね」

「はい。ありがとうございます」

 そうだ。可馨が讙の肉をお裾分けで持って来てくれて、ついでに自分の使わなくなった銅鏡をくれたんだった。

「大切にします」

「それじゃあ私はもう帰るわ。颯懔が帰ってきたら宜しくね」

「はい」

 可馨を見送ってから貰った銅鏡は自分の部屋へ。さて、讙の肉を使って仙薬作ってみようっと。

 天宇に讙を配合した黄疸治療薬の作り方を聞きに、家具工房の方へと向かった。

「天宇兄さーん! 黄疸の治療……あれ、師匠?」

 颯懔が工房にいた。

 天宇と話をしていたのか。

「戻ってきたのなら教えてくださいよぉ。私がどれだけ首を長くして待っていたと思っているんですか!」

 戻ってきたのならこんなところで兄さんと話してないで、すぐに教えて欲しかった。早く会いたいと思っていたのは私だけだったってことか。ちょっぴり拗ね気味に見ると颯懔が苦笑した。

「首を長くしてってほんの数時、老君様の所へ行っていただけではないか」

「ほんの……数時……?」

「颯懔様は女心を分かってませんね。一時でも離れるのが嫌なんですよ。全く見せ付けてくれて、お熱いですねー」

 天宇がうりうり〜と颯懔を茶化している。

 颯懔は老君様の屋敷へ行っていたんだっけ?
 何で私、何ヶ月も会っていないって思ったんだろう。
 記憶がモヤァとして霞みがかっている。

 スッキリしないけど、どうだっていいか。

「それでな、明明。老君様と会ってきて、お主にはしばらく一人で俗世へ降りて貰うことになった」

「一人で、ですか?」

「そろそろお主も力が付いてきたし、俺や誰かと一緒よりも一人の方がより修行を積めるであろう? 」

「……はい、そうですね」

「俺の為にも頑張ってきてくれぬか?」

 颯懔ってこういう事、言う人だったっけ?

 成長を急かすような事はいつもなら言わない。焦る私に、どうせ不老なのだからゆっくりやればいいと言ってくれるんだけど。

 それとも老君の方が痺れを切らしてしまったのかな。
 女に夜這いさせるくらいだから、颯懔に早く真人になって欲しくてまたせ突っついたのかもしれない。

「分かりました! 行ってまいります!!」

「お主が仙籍に入れるようになったら迎えに行く。それまで桃源郷には帰ってきてはならぬ。分かったな」

「はい!」

 ちと厳しい条件だけれど、これも愛のムチだと思って励むしかない。

 早速準備を済ませて桃源郷を後にした。
< 122 / 126 >

この作品をシェア

pagetop