俺様御曹司は新人秘書を口説き落としたい。
夏の終わりを感じる、八月下旬。

大手玩具メーカーの【M.T.Factory】

都心に聳え立つ自社ビルは数年前に当時まだ駆け出しだった一級建築士に依頼したもので、現会長ご自慢のもの。
そんなビルの一階。ガラス張りのエントランスにあるフロントで来客の対応をするのが私の仕事だ。


「雨宮さん、休憩行ってきていいわよ」

「ありがとうございます」


雨宮琴音。短大を卒業と同時に新卒で【M.T.Factory】に入社した私は、入社以来受付に配属され来客対応を任されること早三年。
仕事にもすっかり慣れて、後輩もできて充実した毎日を送っていた。
午前の来客を捌き、少し落ち着いたため先輩の言葉に従い持ち場を離れ、ランチに向かおうと歩く。
すると前方から見知った顔がこちらに歩いてきた。


「あ、琴音!」

「……美玖。美玖も昼休み?」

「うん!丁度良かった。ちょっとこれ置いてくるから一緒にランチ行こ」

「うん」


同期の神谷 美玖は営業一課所属。
新人研修で同じ班だったこともあり、社内では一番仲の良い友人のようなものだ。
ロングの黒髪が艶々で、主張しすぎない落ち着いたメイクが元々の整った顔立ちをさらに引き立たせている。
見れば見るほどの美人の彼女は、屈託無く笑って荷物を置きに行った。

戻ってきた美玖と会話しながら自社ビル近くのカフェで軽くランチしていると、美玖が「そういえば!」と大きく目を開いてこちらに視線を向けた。


「私聞いちゃったんだけど、もうすぐ村瀬専務が帰ってくるんだって!」

「……村瀬専務って、あの?」

「そうそう。私達が入社するのとほぼ入れ替わりでアメリカ支社に勤務になったっていう、あの村瀬専務!」


村瀬専務と言えば、この会社の代表取締役である村瀬社長を父に持つ御曹司だ。

次期社長と言われ、その手腕を確かめるべく業績が悪化していた海外支社を五年の間に立て直してこい、という使命を課せられた……というところまでは知っている。


「へぇー、帰ってくるんだ?確かに最近アメリカ支社の調子良いって聞くもんね」

「そう!五年って言われてたのに三年で立て直しちゃったんだって!」

「すごいねぇ。でも帰ってくるってことはうちでまた働くってこと?」

「そうみたい。しかも、うちの課の先輩から聞いた話によるとめちゃくちゃなイケメンなんだって!」

「……ハハハ、美玖イケメン好きだもんね」

「まあね!」


美玖は嬉しそうに「お近付きになってみたいものよね……!」と妄想を繰り広げている様子。


「そんなこと言ってて大丈夫?彼氏さん怒るんじゃない?」

「大丈夫。私にとっては専務は芸能人と同じ扱いだから!」

「……」


美玖には長年付き合っている恋人がいるのだが、面食いの美玖はかっこいい人を見つけるとすぐにこうなる。彼氏さんの器がすごく広いらしい。


「琴音も可愛いんだから早く彼氏作ればいいのに」

「私はいいよ。今は恋愛よりも仕事頑張りたいし」

「またまたあ。でも琴音は私よりもずっと出会いも多いだろうし、そう言いつつも意外とすぐ彼氏できてスピード結婚とかあるのかもね!」

「ははっ、まさか。それは無いと思うなあ」


受付に配属されてから男性社員や来客の方から声を掛けられる機会も確かにある。

チョコレートブラウンのロングヘアに平行二重。メイク映えする顔だともよく言われて育ってきた。
ありがたいことに自分の容姿が恵まれていることは、自分でもなんとなくわかっていた。

"どうせ顔採用でしょ"なんて同期に馬鹿にされたことだってある。

しかしだからと言ってそれを利用して男性を侍らせようなんて願望も無ければ、そもそも仕事中に出会う誰かとお近付きになりたいだなんて全く思わない。
恋愛なんてしばらくしていないし、結婚願望も今はあまり無い。

しかし親から散々"早く結婚相手を連れてこい"と言われていることを思い出してしまい、胃がキリキリと痛くなる。

それに気付かない振りをしながら美玖からのその村瀬専務のイケメン話を聞かされているうちにあっという間にお昼の時間は終わってしまった。

美玖と別れてから、先輩と休憩を代わるために急いで社に戻った私は、タイムカードを切った後にすぐ自分の持ち場に戻る。


「お待たせいたしました、休憩終わりました」

「おかえり。じゃあ私も行ってくるから、ここよろしくね」

「はい。ごゆっくり」

「はーい」


入れ替わりでランチに向かう先輩を見送り、背筋を伸ばして仕事を再開した。


数日後。
今日は美玖とランチの時間が合わずに一人で先日も来たカフェに足を運んでいた。

食事が運ばれてくるのを待っている間、スマートフォンを開くと美玖から長文のメッセージが。

どうやら噂の村瀬専務が帰国して、今日から本社で勤務を開始したらしい。
帰国後初出勤で色々な部署を回っているようだ。


"琴音のところにも行くと思うよ!本当にかっこよくてヤバかった!"


興奮気味の文章に思わず笑みが溢れる。
美玖の話だと、専務は現在三十五歳。私とは綺麗に一回り歳が離れているようだ。
しかし美玖曰く、そんな歳の差を感じさせないほど若くてかっこいいんだとか。
果たして、今朝そんなかっこいい人はいただろうか。記憶の引き出しをあちこち開けてみるものの、そんな人を見た記憶は全く無い。
おそらく私よりも早くに出社していたのだろう。
運ばれてきたランチを食べるために美玖に適当に返事をして、箸を手に取った。




*****

「はい、フロント雨宮です」

『お疲れ様です。秘書課早川です』

「お疲れ様です」


休憩を終えて持ち場に戻り早速かかってきた内線に対応をしていると、エレベーターから降りてこちらに向かってくる男性の姿を見つけた。
直感でわかった。

……あの人だ。あの人が村瀬専務だ。

見るからに高級そうなブランド物のスーツとピカピカに磨かれた革靴、ワックスでセットされた黒髪がまず視界に飛び込んできて。
切れ長の目とキリッとした眉に薄い唇から覗く白い歯。
その姿が目に飛び込んできた瞬間、私は動きを止めた。

うわ……綺麗な人……。

私とは頭一つ分は違うであろう、高身長と長い手脚。おそらく百八十センチ以上はありそうなスラっとしたスタイル。
その姿に、私は目を奪われた。
秘書らしき男性と会話しながら歩く姿はそこだけ煌びやかで、皆の視線を集めているけれど本人は全く気にしている様子もない。
それどころかそのまま二人はこちらに向かってきており、受付カウンターの前で足を止めた。


『──ですので、十五時によろしくお願いいたします。……雨宮さん?どうかされました?』


電話の向こうの早川さんが不思議そうに声を掛けてきて、私は慌てて


「あ……はい、大丈夫です……十五時ですね。了解しました!」


そう答える。
慌てて視線を逸らしてパソコンにデータを打ち込みすぐに受話器を置いた。

一つ息を吐いてからそっと顔を上げる。
すると、既に彼は目の前にいて柔らかな笑みを浮かべていた。


「初めまして。村瀬雄一と申します。誰かから聞いているとは思いますが、数日前に海外支社から戻ってきて今日から本社勤務になるので軽く挨拶回りをしていて」


その端正な顔立ちから発せられる声は、男性的でありながらも低すぎず、甘ささえ感じる素敵な声。
この声だけで魅了される女性もたくさんいるんじゃないだろうか。


「初めまして。総務部総務課に所属しております。雨宮琴音と申します。よろしくお願いいたします」

「雨宮さんか。よろしく」


言葉通り、手短に挨拶を済ませると村瀬専務は忙しそうに社を出て行った。


「本当に綺麗な人だったねぇ」

「ですね。あれは秘書課が大変なことになりそう……」

「はは、そうかも。でもまぁ、私たちは直接関わることはほとんど無いし。さ、仕事しよ」

「はい」


先輩と笑い合って、私たちは仕事に戻った。

それ以来村瀬専務に会うことこそ無かったものの、美玖から定期的に送られてくる専務情報により、微妙に専務について詳しくなっていった。
独身で現在恋人はいない。アメリカでも恋人は作らずに仕事に没頭。帰ってきてからは社長から数々のお見合いも勧められているんだとか。
しかし専務はそのどれもをお断りしているらしい。美玖の話だと、誰か心に決めた相手がいるんじゃないかと言っていた。
どこからそんな情報を得てくるのか、ミーハーな美玖には驚かされてばかりだ。

そんな呑気なことを考えていた数日後のある日。
私は朝から先輩や後輩と一緒に社内メールを見て驚きを隠せずに立ち竦んでいた。


「……私達、異動ですって」

「……本当ね。まぁ、受付なんてずっとはしていけないしそのうち異動になるのはわかっていたけど」

「それは確かにそうですけど。……にしても急ですね」

「そうね」


社内メールは辞令の知らせで。


【長谷川 聡美・斎藤 風香
上記二名は人事部人事課へ異動を命ずる。
雨宮 琴音
上記一名は総務部秘書課への異動を命ずる】


そこに記されていた名前は私を含む受付業務をしている三名だ。


「……私だけ秘書課、ですか」


先輩の長谷川さんと後輩の斎藤さんは人事課なのに。どうして私だけ。


「えー、羨ましいです」

「でも、急すぎてちょっとまだ頭の整理が……」

「秘書なんてすごいじゃない。うちの会社は受付からの異動はほとんど人事だけって聞いてたから全員そうだと思ってたわ。でも大変そうね。村瀬専務が戻ってきてから色々と社内の体制を変えるって聞いてたから。これもその一環なのかもね」


先輩は笑って私の背中に手を添える。


「そういうことなんですね。……でも全員異動しちゃったら、受付は誰がするんですか?」

「そうね……あ、派遣社員を雇うかもって話、前に部長が言っていたわ。もしかしたらそれかも」

「あぁ、なるほど」


結構この仕事、好きだったんだけどな。
そう思いつつも、辞令には逆らえない。
今週いっぱいで、私は受付から秘書課に異動することに決まったのだった。





***

秘書課に配属された初日の朝。
今までは制服だったものの、秘書課は当たり前にスーツだ。
久し振りにクローゼットから引っ張り出したスーツはもう色褪せていたため、今回の異動に合わせて何着か新調した。
秘書課は女ばかりの受付とは違い、人数は多いものの男女比は半々くらい。
緊張しながら出勤すると、既に私用のデスクまで準備されており、案内されるがままにそこに腰掛けた。
そして私は落ち着く間も無く、秘書課長から驚愕の事実を言い渡された。


「雨宮さんには今日から村瀬専務の第二秘書として働いていただきます。今は社長室にいらっしゃるため、終わり次第ご挨拶してください」

「……あ、はい」


社長室は秘書課のすぐ隣だ。ここからも重厚なドアが見えた。


「専務の第一秘書があちらの加瀬です。彼から色々と教わってくださいね」

「はい」


手で指し示されたのは先日村瀬専務と一緒にいた秘書の方で。


「初めまして。本日付で秘書課へ配属となりました。雨宮 琴音と申します。よろしくお願いいたします」

「村瀬専務の第一秘書をしております。加瀬と申します。よろしくお願いいたします。専務は今帰国したばかりでとても忙しいので私一人では捌ききれず、専務の強い希望もあり雨宮さんを指名させていただきました。急なお話で申し訳ないです」

「……いえ。私でお役に立てれば良いのですが、何分秘書業務は未経験なもので、ご迷惑をお掛けしてしまうかと……」

「最初は誰もが未経験ですから。気にしないでください。それに第二秘書は基本的に内勤が主です。慣れるまでは書類管理の仕事をお任せしようと思っています」

「ありがとうございます。精一杯勤めさせていただきます。ご指導よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


加瀬さんに挨拶はしたものの、
専務の強い希望で、私が指名されたということにどうも引っかかる。
そんな馬鹿な。専務と会ったのは専務が挨拶回りで受付を訪れたあの時一回切りだ。

ただ挨拶しただけ。時間にしてほんの数分のこと。会話らしい会話なんて一つもしていないのだから、専務に気に入られる要因など無かったはず。

何かの間違いではないかと思いつつも、それを聞いている暇など無い。

流石の花形部署。秘書業務は受付の何倍も忙しいのだ。
加瀬さんに基本的なことから順に教えてもらいながら全体の流れを把握して、言われていた通りまずは資料整理や文書作成から仕事を任されることになった。
そして数十分後。


「加瀬」

「はい」


社長室から出てきた専務は加瀬さんを呼ぶ。


「雨宮さん」

「はい」


そして私も加瀬さんに呼ばれて後ろを追うように同行した。
社長室からは少し離れたところに専務室もあり、中に入ると加瀬さんが私を紹介してくれた。


「本日付けで専務の第二秘書に配属されました、雨宮琴音と申します。よろしくお願いいたします」

「あぁ、今日からだったね。よろしく。急な話で申し訳ない。驚いたでしょう」

「……はい、少し」

「ははっ、正直で何よりだ。いきなりだから仕事を覚えるのも大変でしょう。少しずつ慣れていってくれればいいから。わからないことは加瀬に聞いてね」

「はい。ありがとうございます」

「加瀬と雨宮さんには基本的にこの隣にある秘書室で働いてもらうことになっているんだ。秘書課にもデスクはあるけどほとんどそっちには行かないと思うからそのつもりで。朝もこちらに直接出勤でいいからね」

「わかりました」


加瀬さんの言っていた通り、村瀬専務は会議に取引先とのオンラインでの打ち合わせに社内の巡回などスケジュールがカツカツで、どれも分刻みにこなしていた。
それに驚いているのはどうやら私だけで、専務も加瀬さんもそれが当たり前のように動いていた。

……これが普通なんだ。この空気に慣れないと。

専務室の隣の秘書室にも同じように私のデスクがあり、そこに腰掛けるとすぐに内線が鳴り響く。
反射的にそれに出て慌てながらも加瀬さんや専務に引き継いで、と初日からハイペースで仕事が進んでいった。

そんな状態で秘書としての初勤務を終えた午後六時半。


「雨宮さん。もう定時過ぎたのであがって大丈夫ですよ。初日から残業させてしまってすみません」


その言葉に、どっと疲れが押し寄せる。慣れない業務で大分頭を使ったようだ。
しかし専務と加瀬さんの方が明らかに何倍もの業務をこなしている。疲れた顔をしてはダメだ。


「いえ、とても勉強になりました。明日からも頑張ります」

「頼りにしてるよ。お疲れ様」


お疲れ様です。と頭を下げてから専務室に行き、専務にも「お先に失礼いたします」と頭を下げた。

チラッと視線を投げながら「お疲れ様」と言った専務にもう一度頭を下げてからその場を立ち去ろうとしたものの、どうしても気になってしまって足を止めた。


「……あ、あの」

「……ん?」


忙しすぎてまともに休憩も取れていなかった専務は、流石にどこか疲れが顔に出ているような気がする。
それなのに、私に向ける視線は柔らかくて優しい。


「私のこと、専務が指名してくださったとお聞きしました。……どうして、私を」


たった一回会っただけの私を、どうして指名したのか。
聞くと、専務は一瞬目を丸くした後にまた笑う。
その笑みは、さっきまでの柔らかなものではなくて。
不意に見せたニヒルな笑い方に、私は固まる。

……あれ、何か、変。


「どうしてだと思う?」

「え……?」

「って、質問に質問で返すのは良くないか。……まぁ簡単に言えば、俺に興味無さそうだったから」

「……興味?」


声色も、一瞬で低く変わった。
それは、さっきまでの甘さを感じる声ではなくて。
冷たさすら感じる、低い声。


「そう。あの日、挨拶回りっていうのは建前で、実は秘書候補を探す目的で色々と社内を巡回してたんだけどね。どの社員も俺の顔見た瞬間に目の色変えちゃってさ。そういうの俺嫌いだから」

「……あ、えっと」

「なら男にすれば良いじゃんって話なんだけど、もう加瀬がいるし。男ばっかりじゃむさ苦しいし。華が欲しかったんだよね。華が」

「……はぁ」


先程までのは、表の姿なのだろうか。
だとしたら。この一瞬で印象が変わった姿が、専務の本当の姿なのだろうか。

……なんだか怖い。
けれど、次に私に向けられた視線からは冷たさは消えており、むしろ優しさが垣間見えていた。


「その点雨宮さんは俺に全く興味無さ気だったから。それに見た目も清楚で可愛い。総務部長からの評判も良かったし聞く限り頭の回転も早そうで取引先受けも良さそうだったから。丁度良いかなって思って」

「……そ、そうでしたか」


それって……つまりどういうこと?

確かに秘書なんて経験も知識も無いから、能力も何も無いけれども。
頭が痛くなりそうな衝撃で眩暈がした。


「丁度受付は他の企業みたいに派遣社員に任せようって思ってたところだったから、君達三人の人事を考えていたのも確かなんだけどね。思いの外良い具合に収まってホッとしてるよ」


その変わり身の早さに驚きを隠せずにほんの少し顔が引き攣る。
そんな私の反応にすら、専務は面白そうに笑った。


「でも、雨宮さんを秘書にして正解だったなって今思ってるよ」

「え?」

「俺のこの変わりようを見ても大して表情を変えないで必死に理解しようとしてる冷静さ。仕事の覚えも早いし聞いていた通り頭の回転も早い。受付をしていただけあって言葉遣いも立居振る舞いも丁寧で上品だ」

「……あ、りがとう、ございます」


何故か褒められて、声も引き攣る。
その言葉の裏に何かあるのではないか。そう思ってしまうから。
なのに、警戒している私を知ってか知らずか。楽しそうに私を見つめた目と視線が絡み合う。
声は冷たさすら感じるのに、視線はとても甘かった。


「……雨宮さんって、彼氏いるの?」

「……は?」


その甘い視線に捉えられて、目を逸らそうと思ってもうまく動けない。


「……俺の彼女になってくれない?」


デスクに肘を突いたままそう言って口角を上げた専務に、私は言葉を失う。


「俺、雨宮さんのこと気に入っちゃった」


……私は今、もしかして口説かれてる……?
突然の出来事に頭が追いつかなくて、ポカンと見つめてしまった。


「まぁ、雨宮さんって可愛いしモテそうだから彼氏がいてもおかしくはないけど」


その言葉にどう返せば良いかがわからなくて、無意識に胸元をギュッと掴む右手。数秒深呼吸をしてからやっとの思いで口を開く。


「……今は、いません」


下を向きながら答えると、意外だったのか専務は目を数回瞬かせて身を乗り出すようにこちらを見つめる。


「あれ?いないの?ならやっぱり俺立候補して良い?俺、雨宮さんみたいな子タイプなんだよね」


片手を挙げてわかりやすく立候補する専務に私はまた言葉を失いつつも、今度はすぐに息を細く長く吐き出し、口を開いた。
なんだこの男。ほぼ初対面の部下を口説くなんて何考えてんの?


「……申し訳ございません。そのお話はお断りさせていただきます」


クッと腰を曲げて謝罪する私を、専務は目を丸くして見ていた。


「……」


まさか断られるとは思っていなかったのか、今度は専務がポカンと私を見つめる番だった。


「確かに専務は魅力的な男性だと思います。しかし、それとこれとはお話が別です」


大体、貴方には心に決めた相手がいるって噂じゃないか。


「……」


敢えて私を口説く意味は無い。
それなら、私も変に嘘を吐く意味も無い。


「私は今、恋愛をするつもりがありません」

「……」

「申し訳ございませんが、私よりも魅力的で素敵な女性は大勢いらっしゃいます。失礼ですが、今のお話は聞かなかったことにいたしますので、他を当たっていただければと思います。……では、明日からもよろしくお願いいたします。本日はお先に失礼いたします」

「……ははっ!あははっ!さいっこう!」

「……え?」


丁重にお断りしたはずなのに、専務は私の目の前でゲラゲラと笑う。
無邪気な笑い声に固まる私とは対照的に、専務は目に涙を浮かべながらしばらく笑っていた。


「はー笑った笑った。久しぶりにこんな笑ったわ。いいね、ますます気に入ったよ。うん。確かに今のは突然だったし俺が悪かったよね。わかった。でも次は必ずOKさせてみせるから」


自己完結したように頷いた専務は、


「お疲れ様。帰り気を付けてね」


と言ってヒラヒラと手を振る。

条件反射で


「お疲れ様です」


ともう一度頭を下げた私は、わけもわからないまま専務室をあとにした。

後から聞いた話だと、村瀬専務の本性は加瀬さんとご家族の方などごく一部の近しい人間しか知らないらしく、そんな中に何故私が紛れ込んでしまったのかとても疑問に思う。

しかし告白と呼んで良いのかすらわからないあの口説き文句を断ったことによって明日からの仕事がどう変わっていくのか。


"次はOKさせてみせる"


私はまだ、その言葉の意味もここから専務からの本当のアプローチが始まることも、全く想像もしていなかったのだった。

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