平凡な私が、御曹司の“囲い妻”になった日〜奪われたキスと嘘だらけの関係〜
 「お前、今日から俺の“囲い妻”になれ」

 壁際に追い詰められ、目の前の男の唇がそう言葉を紡いだ。耳元で囁かれた低音に、真乃の背筋がぞくりと震える。

 思考が追いつくよりも早く、唇が奪われた。

 あまりに突然で、強引で、息を呑む暇すら与えられなかった。けれど、ただ冷たく荒々しいだけではない。まるで彼女を確かめるような、深く、絡みつくようなキス。

 それは、取引のようでもあり、所有の宣言のようでもあった。

 士道の唇がゆっくりと離れ、真乃の顎に添えられた手が、名残惜しそうに頬をなぞった。

 「……契約だ。今のキスで、お前は俺のものになった」

 呆然と立ち尽くす真乃の視線の先で、天嶺士道はまるで“王”のように微笑んでいた。

 

 すべては、あの投稿から始まった。

 

 「このバイト、まじで危ないって……」

 そんなコメントが添えられたSNSの投稿に、なぜか心が惹かれた。
 #高額バイト #女性限定 #身バレ厳禁 というタグのついたその投稿は、怪しさ満点だった。

 でも、どうしても目を逸らせなかった。

 父の残した借金、滞納した学費、昼夜問わず働いても増えない生活費。
 普通のバイトじゃ、どうにもならない現実。

 “日給10万円以上・短期・容姿端麗な女性優遇”

 冗談のような条件に、半信半疑でDMを送った。すぐに返ってきた返信は、丁寧で、妙にリアルだった。

 ──まずは一度、お会いしませんか? ご希望であれば、交通費と宿泊先はこちらでご用意いたします。

 その夜、黒塗りの車が真乃を迎えに来た。

 

 案内された先は、港区にある超高層マンション。見上げたビルのてっぺんが霞んで見えるほどの高さに、ただただ圧倒された。

 エレベーターで最上階に案内され、応接室で待っていたのは、冷静な印象の秘書だった。

 「白石真乃さんですね。SNSからのご応募、確認しております」

 「……はい」

 「ご家族の借金についても、調査済みです。金額は三百八十万円。お支払いを肩代わりする条件として、こちらの契約をご確認ください」

 差し出されたのは、A4数枚分の紙だった。

 「“専属接待係”って……これ、つまり……」

 「ご想像のとおりです。天嶺家次期当主──士道様の“囲い妻”として、生活していただきます。報酬は月額300万円。住居・食費・衣服代・交際費、すべて弊社が負担します」

 「……そんな、映画みたいな……」

 「では、本人にお会いになって判断なさってください」

 

 その案内で通されたのは、広々としたラウンジ。ガラス越しには、東京タワーを見下ろす夜景が広がっていた。

 その奥、ソファに深く腰掛けていた男が、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ──天嶺士道。

 

 名前は知っていた。
 日本屈指の財閥「天嶺グループ」の御曹司で、複数の上場企業の取締役を兼任する実業家。経済誌の表紙を飾る姿を何度も見たことがあった。

 けれど、写真では伝わらない威圧感が、彼にはあった。

 漆黒のスーツを完璧に着こなした姿は、まるで現代の“王”。
 鋭く冷たい眼差しが、真乃をまっすぐ射抜いた。

 「白石真乃。二十一歳。大学二年。経済的困窮状態。……間違いないか?」

 「……なんで、そんなこと……」

 「囲う以上、確かめるのは当然だ」

 冷たくも理路整然とした言葉に、思わず肩が強張った。

 「別に……売られたわけじゃありません。自分で来たんです」

 そう言った自分の声が、情けなく震えていた。

 士道は一歩、また一歩と近づいてきて、真乃の目の前で足を止めた。

 「なら選べ。ここで断って、借金と一緒に“普通の人生”に戻るか。……俺に飼われるか」

 「…………」

 その言葉に、答えられなかった。

 答えようとしても、声が出なかった。

 士道はため息をつくと、静かに呟いた。

 「選べないなら──こっちから選ぶまでだな」

 その瞬間、背中が壁に押しつけられていた。

 気づけば、士道の片腕が壁に突き刺さり、もう片方の手が真乃の顎を軽く持ち上げていた。

 「目を閉じろ」

 「え……?」

 「黙って、俺のものになれ」

 拒む隙などなかった。
 唇が、触れるより早く、重なった。

 

 深く、甘く、容赦のないキス。

 

 その熱に、心まで奪われそうになる。

 ――逃げなきゃ、と思った。けれど、もう遅かった。

 唇が離れたあと、士道はポケットから小さな箱を取り出し、真乃の手に握らせた。

 ティファニーの、ハートモチーフのネックレス。

 「このネックレスをつけてる間、お前は“俺のもの”ってことだ」

 耳元で、確かにそう囁かれた。

 

 ──こうして、白石真乃の人生は、甘く危うい“契約”とともに動き出した。
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