平凡な私が、御曹司の“囲い妻”になった日〜奪われたキスと嘘だらけの関係〜
 重厚な扉の前で立ち尽くす真乃の手のひらは、じっとりと汗ばんでいた。

 「行け。俺の隣に立つって決めたなら、今さら引くな」

 隣で静かに囁いたのは、士道だった。
 黒のスーツに身を包んだその姿は、冷ややかで圧倒的な存在感を放っている。

 「でも……本当に、私なんかが……」

 「今日は“家族の集まり”だ。俺が連れてくる女に、他人がとやかく言う筋合いはない」

 言い切る声は、低く静かで、どこか命令めいていた。
 そのくせ、不思議と背中を押されるような安心感があるのが、悔しい。

 重く厚い扉が開き、真乃は一歩を踏み出した。

 

 室内には上質な絨毯が敷かれ、柔らかいシャンデリアの光がテーブルを照らしている。
 すでに数人が着席していた。年配の男性と女性──士道の両親と思われる人物。そして、ひときわ目を引く美しい女性が一人、静かにティーカップを傾けていた。

 その女性が真乃を見上げ、ゆっくりと笑った。

 「ごきげんよう。そちらの方は、今日のお連れかしら?」

 「そうだ」

 士道が短く答え、真乃の背中に軽く手を添える。

 「白石真乃。俺のパートナーだ」

 その言葉に、室内の空気がぴたりと止まった。

 女性の目が、一瞬だけ鋭く光った。

 「まあ……パートナー、ですの。ずいぶんとお若い方ね」

 「……はじめまして。白石真乃と申します」

 真乃は小さく頭を下げた。震える声を必死で抑え、なんとか礼を尽くす。

 「仙道綾香と申しますわ。士道さんとは、幼い頃から家族ぐるみで親しくさせていただいておりますの。……よろしければ、覚えておいてくださるかしら?」

 優雅な笑みの裏に、探るような視線が潜んでいる。
 真乃の胸に、じわじわと冷たいものが広がっていく。

 

 「真乃、ここに座れ」

 士道が自分の隣の席を引いた。
 真乃が腰を下ろすと、綾香の目線が静かに追ってくる。

 「士道さんは、素朴な方がお好きだったかしら。……意外ですわね」

 「関係ないだろ。誰を選ぶかは、俺が決める」

 「ええ、ご自分のことに関してはいつもそうでしたものね。でも“家”のこととなると、話は別じゃありません?」

 「俺は、俺の女を自分で選ぶ。……今までも、これからも」

 食事が始まっても、綾香の目はたびたび真乃に向けられた。

 「それにしても……どんなきっかけでお知り合いになったのかしら?」

 「……」

 真乃は言葉に詰まった。

 ──SNSの高額バイト投稿に応募して、面接を受けて、“囲い妻”として契約した──なんて言えるはずがない。

 「偶然だ。けど、俺にとっては、必然だった」

 士道がそれ以上を語らせないように、遮るように言った。

 「綾香、いつまで俺の女を値踏みするつもりだ?」

 「まぁ、そんなつもりじゃございませんの。ただ……こうして正式なお席にご一緒なさるというのなら、それなりの礼儀や素養をお持ちか、少し気になりまして」

 にこやかに笑いながらも、その一言一言に鋭い棘がある。
 


 綾香たちが部屋を出て行ったあと。
 士道は、真乃の方を向いて言った。

 「よく耐えたな。……綾香は一筋縄じゃいかない」

 「……わかってます」

 「これから、もっと色んな目で見られる。それでも、俺の隣にいる覚悟はあるか?」

 真乃は目を伏せたまま、小さく頷いた。

 たった数日で、何もかもが変わっていく。

 けれど──あの人の隣にいる限り、私は引けない。
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