さくらびと。 恋 番外編(3)
蕾は1階の外来が終わった時間帯に、ひとり外来の診察場に資料をとりに来ていた。
「ふーん、髪切ったんだ。いいね、それ」
そんな蕾の姿を、偶然、診察室のドアの前で目にした有澤先生が、不意に声をかけた。
その声には、いつもの冷たさではなく、かすかな驚きと、そしていつもの優しい眼差しが混じっていた。
蕾は、思わず心臓が跳ね上がってすぐさま振り返る。
「先生っ…」
久しぶりの、そして少しだけ嬉しい、有澤先生からの言葉。
安堵した蕾は、感情を押さえられず、思わず有澤先生の袖の白衣をぎゅっと掴んでしまった。
「先生、誰かに見られたら...!」
慌てて小声で話しかけ、手を離そうとする蕾に、有澤先生は優しく微笑みかけた。
「あっ、ごめんなさいっ。腕、掴んじゃって……」
有澤先生もすぐさま周りを見ながら「…大丈夫。皆出払ってる。」と小声で返した。
誰もいないことを確認すると、彼は蕾の顔を暫くじっと見つめて覗き込み、甘く囁いた。
「可愛い」
その一言に、蕾の顔は真っ赤になった。
有澤先生にそんなことを言われるなんて、夢にも思っていなかった。
このまま時間さえ止まってしまえばいいのに。振り出した雨が窓を叩く音も、もはや彼女には心地よく響いた。
「さ、早くナースステーションに戻ったほうがいい」
「はい...」
有澤はそう言って、蕾の背中を軽く押した。
その仕草には、以前のような親密さを求めるような、かすかな熱が帯びていた。
足早に去っていった蕾を、有澤先生は愛おしそうに見つめていた。
蕾は、自分だけに見せる有澤先生の仕草に戸惑いながらも、自分に惹かれているような素振りを見せる言動に、心をときめかせていた。
最近まで辛かったことが嘘のように、
久しぶりの先生との相瀬にほっと胸を撫で下ろした。
有澤先生は、亡くなった奥様をまだ想っているのだろうか。それとも、自分という存在を、意識し始めているのだろうか。
今の蕾にとってはそれを考える余地のない幸せな一時であつた。