また逢いましょう
本と温もり
「さあて、二千年ぶりかな? 久々の人界はどうですか、ベイビー。」
プタハはそう言って俺の顔を覗き込んだ。立っていると俺の方が背は高いので、少し頭を下げたくらいでちょうど良い高さだ。
「そうだな……。」
俺は辺りを見渡した途端、言葉が出てこなくなった。騒然とした市には、溢れんばかりの人が、老若男女を問わず混在している。
「都会だな」
つい、溢すようにそう言ってしまった。すぐにはっとして訂正をしようと慌てたが、誰も揶揄ったりなどしなかった。その代わり、「都会……だね。」と神妙な面持ちで呟いた。俺はプタハのその口調に戸惑い、他三人の様子を伺った。ネフェルトゥムは同じくしっとりとした目をし、ナタとヘラクレスはきょとんとしていた。
「やめろよ」
ついさっきまでしんみりしていたネフェルトゥムは、さっさと切り替えてプタハを現実に連れ戻した。
「ったく、ちょっと泣いてんじゃねーか、長老。歳をとると涙脆くなるって本当だな。」
くくくっと笑ってみせるが、ネフェルトゥムこそ寂しそうな目をしていた。プタハはもはや隠しもしないで目を潤ませていた。
「――」
ナタが口を開き、何か言おうとした。俺は手を口に当て、慌ててそれを止めた。ナタが静かにこちらに視線を向けてくる。俺は手を離し、自分の口の前に人差し指を当て、黙るよう促した。ナタは全てとはいかずともなんとなく察し、こくんと頷いた。
「なあ、本屋ってどこにある? なるべくデカいとこ。」
この妙な雰囲気を塗り替えるため、俺は話題を振った。そもそも、これが本来の目的だしな。
プタハもネフェルトゥムも、俺の言葉で思い出したらしい。だが、少し考えるそぶりをしてからこう言った。
「わかんなぁい」
は?
と思った。多分、声にも出ていた。自分の顔は見えないが、今までで一、二を争うくらい間抜けなさまになっていたと思う。いわゆるあれだ、狐に摘まれたようなってやつだ。俺はくるりとご老人どもから向き直って言った。
「ヘラクレス、どうにかしてくれよぉ。」
俺はヘラクレスの袖にしがみつき、猫撫で声で言った。ヘラクレスはいい淀みながらも、「市の人に聞いてみたら?」と言った。もちろん、これは模範回答だ。俺はぱちぱちと一人で拍手をしながら嘲笑の笑みを浮かべて繰り返し言った。
「やー、ヘラクレスは本当に頼りになるなあ! ほんっとう、頼りになる素晴らしいお兄さんだ! どぉこかの、計画性のない、だぁれかさん、と違って、なんて素敵なんだ!」
そうしてご老人どもを散々に煽り散らかしてやった。プタハは申し訳なさそうに俯き、ネフェルトゥムは片手で握り拳をつくって「おまえ、末っ子だからって限度があるからな?」と言った。ネフェルトゥムの視線が怖いが、からっとした表情に戻ったのを見て、胸をなでおろした。
ナタが通りすがりのおばあさんに声をかけ、行きついた本屋は、俺たちが想像しているよりもずっと大きかった。
館の前に隔たる門は、俺たち全員が肩車をしてもその倍はありそうなほどの高さだ。それにめぐらされた、飾りすぎず質素過ぎない彫刻から、威厳どころか圧迫感さえ感じた。さっと見ただけでもいかにすごいのかわかるというのに、見れば見るほど、その技術の精巧さが視覚からひしひしと伝わってくる。
圧巻の門を通って進むと、今度は美しい庭が両手に広がっているのが目に飛び込んでくる。今はきっと秋だろう、この先やってくる冬を起想させる尖った風が、幾度も頬をすれすれにかすめていくから。庭園には秋特有の香り高いバラが赤々と咲き誇り、大理石でできた真っ白な館と対比的に映る。ここを通る間だけ、鋭い風が心なし柔らかくなったのは、重たく感じるほどに甘い、この香りのおかげか。また、丁寧に形を整えられた草木の緑は、肌寒さに身を縮めるのを躊躇うくらい青々と座り、色気づいた女子のように髪留めを駆使して、自分を誰よりも美しく魅せる。
圧巻、という言葉はすでに使ってしまったので、これは一体なんと表せばよいか。魅力的なレディーたちがかさかさと手を振ってくるものだから、つい手を振り返したくなってしまう。
さて、ようやく本命だ。今までさんざん驚かされてきたからか、どうやってバランスを取っているのかわからなくなるような装飾品や、もはや石だったころの面影など感じさせない彫刻を見ても、先ほどまでの新鮮さや驚きは感じなかった。その代わり、これらすべてをダイダロスに見せてやりたいとは思った。彼が見たらきっと飛び跳ねて喜ぶ。
扉を開け、中に入ると、受付があり、そこで入場料を払った。ここはどうやら国立図書館も兼ねており、本屋としての使用を目的に来た者も入場料を払う決まりらしい。プタハがそれを払い、受付の執事長みたいなご老人が確かめると、ごゆっくりとお過ごしくださいと言われ、奥の扉の先を示された。
そして扉を開けるそのとき、俺はだれにも悟られないように息をのんだ。もう驚かないのはわかったが、それでも身構えておかないと足元をすくわれると思ったからだ。
扉が開き、内装を見た瞬間、俺は言葉を失った。足元から見上げたさらに上まで、ざああっと一面が色とりどりの本で描かれていた。本らしい鈍い色合いが、どことなく安心を呼ぶ。俺は深呼吸をし、紙のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか、俺がある一冊を買ったころには、空はすでにずいぶん暗くなっていた。だが、大きな月が雲に隠れない限り、この世界に暗闇などやってこない。
「楽しかった?」
俺が両手でしっかりと本を胸に抱きかかえていると、プタハが顔を覗き込んで優しく尋ねてきた。俺は意地など張る気はなく、ただ素直に頷いた。
「楽しかった、すごく楽しかった。」
俺があんまり目を輝かせて言ってしまったので、プタハ含め全員がピタッと動きを止めた。俺はその様子に困って四人の顔をかわるがわるに見た。
「よかった」
ふと、隣から柔らかい声が聞こえた。そちらに目を向けると、プタハが目元をとろけさせて優しく微笑んでいた。今まではただ絡んでくる村の年上みたいだったのが、初めてお兄さんに見えた。
その後も、霊樹の原に帰るぞと言ったネフェルトゥムの声はどことなく浮足立っていたし、また来ようぜと言ったナタの声は驚くほど母性に溢れていた。普段は内気なヘラクレスも、髪の毛がくしゃくしゃになるまで頭をなでてくれた。
じんわりと心が温かくなった、なんて、まだ誰にも言いたくないけれど、いつか自分が愛されていることを当たり前に納得できるようになりたい。
霊樹の原に戻ると、そこはいつも通り真昼間のように明るかった。俺はそれが眩しくって目をしかめた。右手をひさしのようにするが、左手では本を大事に抱いて、胸との間に挟んだ。
みんなが俺たちに気が付くと、わあっと集まってきた。その中から一人が、まるで弾丸のごとき速さでいちはやく駆け付けた。
「ベイビー、おかえり! 次は俺と行こうぜ! 退屈させねえから!」
ガルダはそう言って、二千年ぶりの人界と四人の言葉の幸せな余韻を全部ぶち壊してきやがった。俺は今の今まで穏やかだったが、こいつの為だけに眉間に深いしわを寄せた。だが、それもすぐにほぐして、代わりに落ち着いた声で諭してやった。
「おい、クソ野郎。二千年ぶりに人界へ行けて、大きな本屋でじっくり吟味して本を選んで、今までないくらい最高に気分がよかった奴にその仕打ちか? まずは『おかえり! 久々の人界楽しめた? おっ、本買ったの? いいじゃ~ん! プタハ、ネフェルトゥム、ナタ、ヘラクレスのみんなもおかえり!』だろ? 最悪な気分だ、お前のせいで。当分その面を俺に見せるんじゃねえ、そしてその自己中心的な発言しかできない口がなくなるまで話しかけてくるんじゃねえ。二十五万年も生きたところで、人としてのあれこれが出来上がらなきゃ、意味がねえな? お?」
俺が言い切ると、後から来たみんながどっと笑った。そしてさっさとガルダを奥へ奥へと流していった。
「ごめんねベイビー。あいつ、客の前でしか気を遣えないんだ。特に、なぜかベイビーのこととなるとなりふり構わずってなっちゃうんだ。ごめんね。」
一人が俺にそう言った。
「客の前ではできているのが信じらんねえよ。」
そう言って俺は肩をすくめた。そして、解散!と叫び、話を聞きたがる奴らも全員と帰ってもらった。自分の用があって残るやつは別だ。
ほぼみんなが帰ると、俺は霊樹に腰掛け、表紙をじっくりと見つめた。赤紫というか、赤茶というか。赤ワインの色は……明るすぎるな。俺はまず、表紙の色から楽しむ。だってそうすれば、一冊の本で楽しめることが増えるだろう? 俺は本を優しくなでた。そして、タイトルと著者の字を指でなぞる。「数式と霊力」、「ピタゴラス」。「数式と霊力」、「ピタゴラス」。「数式と霊力」、「ピタゴラ――」
「サラスヴァティの本か!」
突然、プタハが覗き込んできた。
「あぎゃっ!」
驚きのあまり手が出てしまった。プタハの頬には、痛々しく俺の拳の型が残った。
「わりい、これは本当にすまん。」
頬を撫でさするプタハに、俺は何度か頭を下げて謝った。隣にいたネフェルトゥムが、「気にすんな、自業自得だ。」と冷ややかな目でプタハを見ながら言った。色鉛筆で雑に塗りつぶされたように光沢のない目と、横に長い弧を描く口元が、恐ろしい。とても悪意を感じる。
「そうか?」とか細い声で尋ねつつ、俺は納得することにした。
「で、サラスヴァティが誰か、だよな。」
プタハが俺に尋ねてきたので、俺はこくんとだけ頷いた。プタハは胡座をかき、心なしか背中をくっと伸ばしながら空を見上げ、俺に言った。
「サラスヴァティはその『ピタゴラス』のことさ。」
そう言って、プタハは生ぬるい風を上辺だけ吸い込んだ。俺はというと、まだ話が掴めず、瞼をぱちぱちさせた。プタハはそれを見て、話を続ける。
「サラスヴァティは精霊だよ、確か二十人目くらいの。」
プタハの言葉に、ネフェルトゥムが横から「合ってる」と口を挟んだ。その二人の様子から、俺は安堵した。なんだ、てっきり厄介な話に巻き込まれるのかと思った。
すると、また懲りずにプタハが俺の顔を覗き込んでくる。
「サラスヴァティに会ってみたい?」
…………は?
プタハはそう言って俺の顔を覗き込んだ。立っていると俺の方が背は高いので、少し頭を下げたくらいでちょうど良い高さだ。
「そうだな……。」
俺は辺りを見渡した途端、言葉が出てこなくなった。騒然とした市には、溢れんばかりの人が、老若男女を問わず混在している。
「都会だな」
つい、溢すようにそう言ってしまった。すぐにはっとして訂正をしようと慌てたが、誰も揶揄ったりなどしなかった。その代わり、「都会……だね。」と神妙な面持ちで呟いた。俺はプタハのその口調に戸惑い、他三人の様子を伺った。ネフェルトゥムは同じくしっとりとした目をし、ナタとヘラクレスはきょとんとしていた。
「やめろよ」
ついさっきまでしんみりしていたネフェルトゥムは、さっさと切り替えてプタハを現実に連れ戻した。
「ったく、ちょっと泣いてんじゃねーか、長老。歳をとると涙脆くなるって本当だな。」
くくくっと笑ってみせるが、ネフェルトゥムこそ寂しそうな目をしていた。プタハはもはや隠しもしないで目を潤ませていた。
「――」
ナタが口を開き、何か言おうとした。俺は手を口に当て、慌ててそれを止めた。ナタが静かにこちらに視線を向けてくる。俺は手を離し、自分の口の前に人差し指を当て、黙るよう促した。ナタは全てとはいかずともなんとなく察し、こくんと頷いた。
「なあ、本屋ってどこにある? なるべくデカいとこ。」
この妙な雰囲気を塗り替えるため、俺は話題を振った。そもそも、これが本来の目的だしな。
プタハもネフェルトゥムも、俺の言葉で思い出したらしい。だが、少し考えるそぶりをしてからこう言った。
「わかんなぁい」
は?
と思った。多分、声にも出ていた。自分の顔は見えないが、今までで一、二を争うくらい間抜けなさまになっていたと思う。いわゆるあれだ、狐に摘まれたようなってやつだ。俺はくるりとご老人どもから向き直って言った。
「ヘラクレス、どうにかしてくれよぉ。」
俺はヘラクレスの袖にしがみつき、猫撫で声で言った。ヘラクレスはいい淀みながらも、「市の人に聞いてみたら?」と言った。もちろん、これは模範回答だ。俺はぱちぱちと一人で拍手をしながら嘲笑の笑みを浮かべて繰り返し言った。
「やー、ヘラクレスは本当に頼りになるなあ! ほんっとう、頼りになる素晴らしいお兄さんだ! どぉこかの、計画性のない、だぁれかさん、と違って、なんて素敵なんだ!」
そうしてご老人どもを散々に煽り散らかしてやった。プタハは申し訳なさそうに俯き、ネフェルトゥムは片手で握り拳をつくって「おまえ、末っ子だからって限度があるからな?」と言った。ネフェルトゥムの視線が怖いが、からっとした表情に戻ったのを見て、胸をなでおろした。
ナタが通りすがりのおばあさんに声をかけ、行きついた本屋は、俺たちが想像しているよりもずっと大きかった。
館の前に隔たる門は、俺たち全員が肩車をしてもその倍はありそうなほどの高さだ。それにめぐらされた、飾りすぎず質素過ぎない彫刻から、威厳どころか圧迫感さえ感じた。さっと見ただけでもいかにすごいのかわかるというのに、見れば見るほど、その技術の精巧さが視覚からひしひしと伝わってくる。
圧巻の門を通って進むと、今度は美しい庭が両手に広がっているのが目に飛び込んでくる。今はきっと秋だろう、この先やってくる冬を起想させる尖った風が、幾度も頬をすれすれにかすめていくから。庭園には秋特有の香り高いバラが赤々と咲き誇り、大理石でできた真っ白な館と対比的に映る。ここを通る間だけ、鋭い風が心なし柔らかくなったのは、重たく感じるほどに甘い、この香りのおかげか。また、丁寧に形を整えられた草木の緑は、肌寒さに身を縮めるのを躊躇うくらい青々と座り、色気づいた女子のように髪留めを駆使して、自分を誰よりも美しく魅せる。
圧巻、という言葉はすでに使ってしまったので、これは一体なんと表せばよいか。魅力的なレディーたちがかさかさと手を振ってくるものだから、つい手を振り返したくなってしまう。
さて、ようやく本命だ。今までさんざん驚かされてきたからか、どうやってバランスを取っているのかわからなくなるような装飾品や、もはや石だったころの面影など感じさせない彫刻を見ても、先ほどまでの新鮮さや驚きは感じなかった。その代わり、これらすべてをダイダロスに見せてやりたいとは思った。彼が見たらきっと飛び跳ねて喜ぶ。
扉を開け、中に入ると、受付があり、そこで入場料を払った。ここはどうやら国立図書館も兼ねており、本屋としての使用を目的に来た者も入場料を払う決まりらしい。プタハがそれを払い、受付の執事長みたいなご老人が確かめると、ごゆっくりとお過ごしくださいと言われ、奥の扉の先を示された。
そして扉を開けるそのとき、俺はだれにも悟られないように息をのんだ。もう驚かないのはわかったが、それでも身構えておかないと足元をすくわれると思ったからだ。
扉が開き、内装を見た瞬間、俺は言葉を失った。足元から見上げたさらに上まで、ざああっと一面が色とりどりの本で描かれていた。本らしい鈍い色合いが、どことなく安心を呼ぶ。俺は深呼吸をし、紙のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか、俺がある一冊を買ったころには、空はすでにずいぶん暗くなっていた。だが、大きな月が雲に隠れない限り、この世界に暗闇などやってこない。
「楽しかった?」
俺が両手でしっかりと本を胸に抱きかかえていると、プタハが顔を覗き込んで優しく尋ねてきた。俺は意地など張る気はなく、ただ素直に頷いた。
「楽しかった、すごく楽しかった。」
俺があんまり目を輝かせて言ってしまったので、プタハ含め全員がピタッと動きを止めた。俺はその様子に困って四人の顔をかわるがわるに見た。
「よかった」
ふと、隣から柔らかい声が聞こえた。そちらに目を向けると、プタハが目元をとろけさせて優しく微笑んでいた。今まではただ絡んでくる村の年上みたいだったのが、初めてお兄さんに見えた。
その後も、霊樹の原に帰るぞと言ったネフェルトゥムの声はどことなく浮足立っていたし、また来ようぜと言ったナタの声は驚くほど母性に溢れていた。普段は内気なヘラクレスも、髪の毛がくしゃくしゃになるまで頭をなでてくれた。
じんわりと心が温かくなった、なんて、まだ誰にも言いたくないけれど、いつか自分が愛されていることを当たり前に納得できるようになりたい。
霊樹の原に戻ると、そこはいつも通り真昼間のように明るかった。俺はそれが眩しくって目をしかめた。右手をひさしのようにするが、左手では本を大事に抱いて、胸との間に挟んだ。
みんなが俺たちに気が付くと、わあっと集まってきた。その中から一人が、まるで弾丸のごとき速さでいちはやく駆け付けた。
「ベイビー、おかえり! 次は俺と行こうぜ! 退屈させねえから!」
ガルダはそう言って、二千年ぶりの人界と四人の言葉の幸せな余韻を全部ぶち壊してきやがった。俺は今の今まで穏やかだったが、こいつの為だけに眉間に深いしわを寄せた。だが、それもすぐにほぐして、代わりに落ち着いた声で諭してやった。
「おい、クソ野郎。二千年ぶりに人界へ行けて、大きな本屋でじっくり吟味して本を選んで、今までないくらい最高に気分がよかった奴にその仕打ちか? まずは『おかえり! 久々の人界楽しめた? おっ、本買ったの? いいじゃ~ん! プタハ、ネフェルトゥム、ナタ、ヘラクレスのみんなもおかえり!』だろ? 最悪な気分だ、お前のせいで。当分その面を俺に見せるんじゃねえ、そしてその自己中心的な発言しかできない口がなくなるまで話しかけてくるんじゃねえ。二十五万年も生きたところで、人としてのあれこれが出来上がらなきゃ、意味がねえな? お?」
俺が言い切ると、後から来たみんながどっと笑った。そしてさっさとガルダを奥へ奥へと流していった。
「ごめんねベイビー。あいつ、客の前でしか気を遣えないんだ。特に、なぜかベイビーのこととなるとなりふり構わずってなっちゃうんだ。ごめんね。」
一人が俺にそう言った。
「客の前ではできているのが信じらんねえよ。」
そう言って俺は肩をすくめた。そして、解散!と叫び、話を聞きたがる奴らも全員と帰ってもらった。自分の用があって残るやつは別だ。
ほぼみんなが帰ると、俺は霊樹に腰掛け、表紙をじっくりと見つめた。赤紫というか、赤茶というか。赤ワインの色は……明るすぎるな。俺はまず、表紙の色から楽しむ。だってそうすれば、一冊の本で楽しめることが増えるだろう? 俺は本を優しくなでた。そして、タイトルと著者の字を指でなぞる。「数式と霊力」、「ピタゴラス」。「数式と霊力」、「ピタゴラス」。「数式と霊力」、「ピタゴラ――」
「サラスヴァティの本か!」
突然、プタハが覗き込んできた。
「あぎゃっ!」
驚きのあまり手が出てしまった。プタハの頬には、痛々しく俺の拳の型が残った。
「わりい、これは本当にすまん。」
頬を撫でさするプタハに、俺は何度か頭を下げて謝った。隣にいたネフェルトゥムが、「気にすんな、自業自得だ。」と冷ややかな目でプタハを見ながら言った。色鉛筆で雑に塗りつぶされたように光沢のない目と、横に長い弧を描く口元が、恐ろしい。とても悪意を感じる。
「そうか?」とか細い声で尋ねつつ、俺は納得することにした。
「で、サラスヴァティが誰か、だよな。」
プタハが俺に尋ねてきたので、俺はこくんとだけ頷いた。プタハは胡座をかき、心なしか背中をくっと伸ばしながら空を見上げ、俺に言った。
「サラスヴァティはその『ピタゴラス』のことさ。」
そう言って、プタハは生ぬるい風を上辺だけ吸い込んだ。俺はというと、まだ話が掴めず、瞼をぱちぱちさせた。プタハはそれを見て、話を続ける。
「サラスヴァティは精霊だよ、確か二十人目くらいの。」
プタハの言葉に、ネフェルトゥムが横から「合ってる」と口を挟んだ。その二人の様子から、俺は安堵した。なんだ、てっきり厄介な話に巻き込まれるのかと思った。
すると、また懲りずにプタハが俺の顔を覗き込んでくる。
「サラスヴァティに会ってみたい?」
…………は?