無駄な望みは捨ててはいけない(再録)

無駄な望みは捨ててはいけない


 二十代の終わり頃には、私は自分の人生に見切りをつけていた。

 どうやら、このまま先細りか、せいぜい現状維持で、例えば人生で偉い人と会話したり、挨拶したりする期会は無く、一生パート店員として貧しくせいぜい生活保護を受けない程度にやりくりしながら暮らして行くのだと悟っていた。

 その時、自分には敬語はもう必要ないスキルなのだと考えてしまった。
 そもそも、大した技術ではなかった私の敬語は、その時に捨てられてしまい、そのまま戻らなくなった。
 所が人生には転機がある。
 なんと、夫が経営していた会社が軌道に乗ったのだ。


 我が家には時折、まあまあな大企業の部長さんなどが挨拶に来るようになった。
 大手デパートの開発部からの宅配便が届いたりするようになった。
 貧乏時代に苦労して贈ったお中元とお歳暮は、届く件数の方が多くなった。

 
なのに私は年齢にふさわしい言葉遣いや、相手方に失礼にならない立ち振る舞いが全く出来ない。


 生活保護を受けずに済みますように!税金が払えますように!という望みを胸に抱いていた下流生活者がビジネススキルを捨てたことは、責められる事だろうか?


 間違いなく責められるべきですよね。


 そう、間違いない。

 捨てるべきではなかった。
 カスの様な敬語もきちんと保管して整理整頓して大事にしておかなければいけなかったのだ!

 もちろん、敬語が今より出来たからと言って、私が特に質の良い労働者として完成したとは思えませんが、しゃべり方は、労働姿勢や能力の質を問われる以前の基本的な部分。

 どうしてそんな大事なものを捨てて良いと思ったのか、自分の判断ミスが悔やまれます。 不幸にして社長のワンマン企業かつ微細企業であるわが社は、取引先との全ての連絡を社長がこなす。

 私は一従業員として単純労働と、わが社が女子社員にとって危険な会社だと感じさせない様に社長と女子社員の間をウロウロするという業務に従事している。

 私が人前に出るのはほぼ、宅配便のハンコを打つ時だけだ。
 私は非常にコミュニケーション力に課題の多い人物で、大事な取引先の皆様にほほ笑みながら会釈する以上の仕事はするべきでないと確信しているので、幸いにもちょうどよかった。

 でも、ちょうどよかったとはいえ、その方が良いとか、それで充分というわけでは決してない。

 私の就業は家族頼みですが、真っ当に働こうとすれば、言葉遣いが身についていないだけでも、充分に人生は不利に傾いていったはずです。

 なんでも貪欲に身に付けることは無理です。

 でも、現状に望みがないとしても、投げやりになるべきではなかったと今は思います。
 積極的に投げ捨てたわけではありませんが、些細な言葉使いを維持することに、殆ど労力は要らなかったはずです。
 使えるお金や時間の都合で取捨選択を迫られる時は、もちろん熟慮して捨てることも重要ですが、スキルはいくらあっても重くないと思いますし、持っているだけでも心を支えてくれたはずです。

 何の役に立ったのか分からない持ち物でも、充分に心を支えてくれる。

 高校生の時、私はイラストレーターになりたかった。
 友人と将来の希望について話し合ったとき、遠回しにイラストレーターを匂わすと、彼女は猛烈に私をバカにした。

 だけど、プロになったのは、彼女の方だった。
 映像制作会社に入社し、海外で働いているという。
 あなたこそ本気じゃないの!


 ハッキリ言えば、私は本気じゃなかった。
 もちろん気持ちは本気だったけれど、その為に道筋を考えてコツコツ描き続けるような行動をしなかった。
 人に笑われてしおれて引っ込む程度にしか本気じゃなかった。

 彼女は、私から見て全く絵が下手だった(漫画的な絵でした)
 異様に古臭く、全く何の魅力も感じなかった。
 私は、ハッキリと彼女の絵をバカにしていた。


 だが、彼女は本気だった。


 絵描きというジャンルで食うという本気があった(あるいはその後に本気になった)


 高校生の頃彼女にバカにされたことは、相当時間のたった今も腹の立つ思い出です。
 ですが、彼女がしたであろう本気の努力には、心の底から敬意を持っています。


 人の心は一本道ではありません。


 自分の願望がどの位強いか、自分がどの位本気を出せるかは、常に自分にも明らかに見えているわけではないのですから。
 私もそれなりには本気だったのですが、惰弱で自制心の弱い私には、イラストレーターでなくとも、そもそもあまり働くという事が出来なかった。

 おそらく彼女は、他の仕事をしても上手く行っただろうと思う。

 だけど、私が絵を描き続けることは、悪い選択ではなかったはずだと思う。
 絵は描こうと思えば大してお金の要る趣味ではないのですから。
 何としても描き続けようという意欲が続かなかったのです。

 若いうちは、意欲というか、これをやることで何かが手に入るぞ!という根拠のない自信を持っていたと思います。
 自分の才能を素晴らしい持ち物のように思っていました。
 大人になるにつれて、どうやら違うらしい事に気が付くと、なし崩しにやる気を失って行き、絵を描くことより生活の方が楽しくなって、人が描いたものを見るダラけた時間の方が好きになってしまいました。

 才能は、必ずしも人と比べて秀でている必要はないと思います(もちろん秀でている方が断然満足ですが)。
 続けていれば必ず上達するし、なんといっても私は前より上手であると感じるだけで充分に自分の心を支えてくれます。

 件の友人は確かにプロになったけれど今も心の中では私の方がうまかったよねと思ってしまっています。
 でも、描くのをやめてしまった私は、それを証明できません。
 自分の心の中でさえ確かに私の方が優れているとは断言できないのです。

 下手だからと言って、やめてしまう必要はないし、仕事にならないからと言って、やめてしまう必要はありませんでした。
 ひとまとめにすると、絵を愛し続けることが出来なかった……とでも言っておきましょう。

 

 愛は見返りを求めない。

 自らが愛する事のみに意味があるのだ!(とばかりは思えませんが)

 

 やりかけたことは、細々とでも続けてみると良い。
 自分の中に持っている良いものは、ずっと持っていた方が良い。

だからいまさら、私は小説を書いている。
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