過ちの契る向こうに咲く花は
 こんやくしゃ、と言ったような気がする。聞き間違いでなければ。
 それは私が知っているあの婚約者のことだろうか。
 いやまったく身に覚えがないんですが。

 現状が飲み込めずぼけっとしていると伊堂寺さんはえらくむすっとした顔で「まあいい」と呟いた。
 まあいい、って何がでしょうか、と喉元まで出かかってぐっと堪える。

「今日の夜は暇だな」
「え? あ、まあ、はい」
「俺が上がるまで待っていろ」
「は……?」
 何を素直に答えているのだろう。と思わず内心自分で突っ込んだ。
 ただ有無を言わせない雰囲気に押されて、口が勝手に動いてしまった。

「案内はもういい、戻るぞ」
 しかもボスの配慮虚しく、半分も終わらないまま伊堂寺さんはさっさと来た道を戻ってゆく。何がなんだかわからない私をその場に残したまま。
 とはいえ、いつまでもそこで突っ立っていてもしかたがない。
 あとで何かしら――誤解や間違いなどが解けるだろう、とりあえずそう思うことにして仕事へと私も戻る。たぶん私の聞き間違いだろう。そう考えて今日の仕事へと取り組む。
 なるべく、冷静に。なるべく、いつも通りに。

 昼間は何事もなく平穏に過ぎていった。私の勘違いだったのか、部屋に戻った伊堂寺さんは最初の通りしっかりした人で、部署の皆さんからの印象も上々だ。
 仕事が終わりに近づくにつれ、歓迎会の話となった。会社の全体のものは断ったらしいので、部署のメンバーだけで週末飲みに行こうと話が固まる。
 さすがに伊堂寺さんもそれは断らないみたいだった。
 私は久しぶりの飲み会に、ちょっと気持ちが弾んでいた。

 終業のベルが鳴る。ただうちの会社は残業が常。もちろん残業代は出るけれども。
 ところが今日はボスの機嫌がいいのか、お偉いさんの息子に配慮したのか、残業時間もさくっと切りあげさせられた。
 じゃあ帰りますか、と各々立ち上がる瞬間、私は朝のことを思い出す。
 とりあえずなんの話だったのかきちんと聞きだして間違いを正さねば、そう思って伊堂寺さんの顔を盗み見る。瞬間、しっかり目が合ってしまった。
 しかもあれは、優しい瞳じゃない。野生の肉食獣でもない。
 熱のない爬虫類のものだ。

 思わず肩が震えそうになるも、必死で堪えて鞄を掴み取る。ロッカーからコートを取り出してそそくさと部屋を出ようとすると、背中にやってくるとてつもない威圧感。
 それでも逃げるように廊下を小走りに進み、外へと向かう。

 が、現実は甘くなかった。
 いつの間にか追いつかれていた私は、あっさり捕まり伊堂寺さんのであろう車の助手席に押し込まれる。
「シートベルトはしとけ」
 運転席に座った彼が無愛想にそう言った。その言葉にだけは何故か素直に従っていた。

 ただ、これは。
 拉致でしょう、明らかに。

 まったくもって予想外の展開についていけない私を置いて、車は低いエンジン音をたてどこかへと走り出した。
 
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